六波羅蜜とは?語源やお彼岸との関係について

菩薩がするべき修行に「六波羅蜜」というものがあります。この修行を完成させることによって、菩薩は仏になることができます。

またこれは、仏教徒である私たち自身が実践していかなければいけないものでもあります。

お彼岸とも関係があり、時々聞く言葉なのですが、いったいどういうものなのでしょうか。

六波羅蜜とは

六波羅蜜とは、菩薩が行うべき六つの修行のことです。

この修行を完成させることによって、菩薩は悟りを開き、仏となることができるのです。

また、仏教徒の私たちも、仏の教えに従って悟りを目指す菩薩です。

つまり、私たち自身も積極的に実践して、よりよい人格を形成するために取り組んでいかなければいけないものでもあります。

「修行」と聞くと堅苦しくて他人事のように感じてしまいますが、自分にとっても必要なものであると理解して、積極的に実践するようにしましょう。

六つの修行について

六波羅蜜は、悟りにいたるための六つの修行です。

私たちにいたっては、よい人格を形成するための六つの行いのことです。

その六つというのは、

  • 布施(物惜しみをしないこと)
  • 持戒(わるいことはしないこと)
  • 忍辱(耐え忍ぶこと)
  • 精進(怠けないこと)
  • 禅定(心を落ち着かせること)
  • 智慧(ものごとを正しく見ること)

布施

「布施」と聞くと、読経のお礼としてお坊さんに渡すお金のことだと考えられていますが、本来は想ではありません。

出家修行者や仏教教団に対して、衣類や食べ物などを与えて施しをすることをいいます。ひいては、他者に対して自分ができうる限りのことをしてあげるという、無欲の行いのことも布施です。

ただし、見返りを求めてはいけません。「してあげた」という傲慢な心は、自分自身の苦しみを生み出す原因となります。

普段から他者に対して施しを行い、物惜しみをしない心を作り上げておくことで、本当に何かあったときに、自分自身が苦しみ少なく乗り越えていくことができるのです。そのための布施行です。

仏道修行において、始めにあげられる大切な実践です。

持戒

「持戒」は、戒をたもつことです。

戒というと、何やら難しく堅苦しくて、「あれはだめ」「これはだめ」というイメージがあると思いますが、簡単にいうと「悪いことをやめて、いいことをする」のが戒です。

「戒」の語源には、「習慣化する」という意味があります。

例えば「歩く」という行動は、「右足と左足を交互に前に出して進む」ということを、赤ん坊の頃に毎日毎日訓練したことによって、特に何も考えることなく当たり前のようにできるようになります。

私たちの悩み苦しみは、自分勝手な考えが生み出しています。何がよくて何が悪いかを考えてしまうことによって、自分の求めるものが得られなかったり利益にならないと気づいてしまったりしたときに、腹をたてて怒って争いが生じるのです。

しかし、悪いことをやめていいことをする事が習慣化されていると、たとえそれが自分の利益になろうがならなかろうが、当たり前のように実践することができます。自分勝手な考えがそこに加わらないので、悩み苦しむことがないのです。

忍辱

「忍辱」は、じっと耐え忍ぶことです。つらい仕事でも、イヤな勉強でも、耐えなければいけないときは耐えて取り組まなければいけません。

耐え忍ぶことと、「我慢」することとは別のことです。

我慢の「慢」は、「傲慢」の「慢」です。「自分が」という自我の押しつけの表れです。

じっと耐え忍んでいるように見えても、心の中で「おれがしてやってる」という考え方を持っていては、物事がうまくいかなかったときに「おれがせっかく我慢してやったのに、どういうことだ!」と腹を立てて争いを生み出す原因になります。

「自分が」という我欲を捨てたところで、じっと耐え忍び、やるべき事に取り組んでいくことが大切なのです。

精進

怠けることなく、仏道修行に励むことです。

仏道修行に限らず、怠けていては目標に達成することはできません。

お釈迦様は、家にある財宝を他の人にとられないように一生懸命守るように、賢者は努め励むことを至宝のように守り抜くと表現しています。

反対に、自分の欲に耽って怠け、努力しないことを放逸(ほういつ)といいます。

目的達成のためには、怠けることなく一生懸命にはげまなければいけません。努め励むことが、よりよい生活を生み出すための根幹となっているのです。

禅定

心をひとつにとどめた状態のことを、「禅定」といいます。

私たちは、眼、耳、鼻、舌、身、意という感覚器官を通して、色、音、香り、味、感触、世の中のできごとを感じ取っています。

ところが、人間は一度にふたつ以上のものを受け入れることができません。見るときは見るだけ、聞くときは聞くだけしかできないのです。それらを、瞬きの20倍の速さで繰り返しておこない、その断片的な情報を頭の中でつなぎ合わせることで、あたかも同時に見えているように感じるのです。

このように、たくさんの情報が瞬間瞬間のうちに入りこんでくることで、その情報に惑わされて人は悩み苦しんでいるのです。

そこでお釈迦様は、周りから入ってくるありとあらゆる情報をシャットアウトして、自分の心にのみ意識を向けることで、煩悩を打ち消し、真の安楽を得ることができました。

この時の心の状態を「禅定」というのです。

苦しみの原因は、自分の心にあります。惑わされずに、自分の心をひとつにとどめて落ち着くことは、日常の中においてもとても大切なことです。

智慧

「智慧」はものごとを正しく見る力のことです。

私たちには根本的に智慧が備わっていません。ものごとを正しく、すなわちありのままに見ることができず、自分の都合でものごとを見てしまうがゆえに、苦しみが生まれるのです。

今の社会には、ありとあらゆる情報があふれています。そんな情報化社会のなかにおいて、今私たちには何は正しくて何が間違っているのか、情報を正しく見極める力が求められています。

ところが、私たちは自分の見たいものしか見なかったり、都合のいい部分しか受け入れなかったりします。そして、自分の都合だけで情報を組み合わせて判断し、行動しようとしています。

正しく情報を手に入れなかった自分が悪いのに、自分は正しくものごとを見ていたつもりになっているので、そのギャップから生じる苦しみに、私たちはさいなまれているのです。

智慧はとても重要で、数々の修行の末に菩薩たちは、智慧を完成させることで悟りを開き、仏となるのです。

波羅蜜の語源

波羅蜜とは、古代インドの言葉でパーラミターといい、これが音写されたもので、波羅蜜多とも訳されます。

またこれを意訳すると、到彼岸となって、波羅蜜の修行によって輪廻の苦しみの世界である此岸から涅槃の境地である彼岸にいたることができるという意味のものになります。

このパーラミターという言葉の語源をもう少したどってみると、「最上であること」という意味が含まれています。

すると、布施は「最上の布施」となり、おなじように「最上の持戒」「最上の忍辱」「最上の精進」「最上の禅定」「最上の智慧」となります。

最上であることは、最も優れてそれ以上ないものであり、完成されたものであるので、つまりは、完全なる布施、乃至は完全なる智慧の完成を、六波羅蜜というのです。

お彼岸との関係

春と秋には、お彼岸があります。

お彼岸は、春分の日、秋分の日を中心に前後三日ずつ、それぞれ一週間の期間をいいます。

日本古来の習慣ですが、これに仏教の教えが加わって、今ではお彼岸の期間にはお仏壇やお墓、お寺にお参りしてご先祖様を供養する期間になっています。

かつては太陽を祀る「日祭り」「日送り」という風習から、「日願」ともいわれていました。そこに、仏教のパーラミタ―である「到彼岸」があわさり、現在のお彼岸になったといわれています。

お彼岸の一週間には、六波羅蜜の修行に励むよう教えられています。

本来ならば、仏となるためには毎日これらの修行の実践をしていかなければいけません。しかし、現代社会を生きる私たちにとって、それは到底できることではありません。

だから、お彼岸の一週間くらいは六つの修行に励むよう教えられているのです。

まとめ

六波羅蜜は、菩薩が仏となるために実践しなければいけない修行です。

  • 布施(物惜しみをしないこと)
  • 持戒(わるいことはしないこと)
  • 忍辱(耐え忍ぶこと)
  • 精進(なまけないこと)
  • 禅定(心を落ち着かせること)
  • 智慧(ものごとを正しく見ること)

これは、仏教徒である私たち自身にも当てはまるものです。よりよい人生を開いていくために、この修行をしっかりと実践していかなければいけません。

言葉は難しいですが、今すぐできることがたくさんあります。

悩む必要はありません。できることから、ちょっとずつはじましょう。

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