私たちは日常生活の中で、いろんな悩み苦しみを抱えながら生きています。その苦しみから解放されるための教えが、仏教です。
お釈迦様は、この世は根本的に苦しみであり、そこには必ず原因があり、修行によって苦しみを取り除くことができるとして、苦しみを取り除くための修行を説き示されました。
それは八正道といい、八つの修行の項目が掲げられています。その中でも特に重要なのが「正見(しょうけん)」といわれるもので、正しいものの見方をすることを説かれています。
ここでは、「正見」について、解説します。
苦しみを取り除くための道
お釈迦様は、この世の中は根本的に苦しみであると説かれました。
しかし、苦しみには必ず原因があり、修行によって苦しみを取り除くことができると説かれました。
実際、お釈迦様自身もたくさんの出来事に遭遇し、苦しみにさいなまれて生きてこられました。そして、修行の末に悟りを開き、仏となられたのです。
また、お釈迦様のお弟子さんたちも、教えに従って修行することによって悟りを開き、苦しみから解放されました。
現代社会においてもそれは同じ事です。お釈迦様と同じ境地にはいたることはできないかもしれませんが、教えに従って実践し、正しく日常生活を送ることができれば、苦しみから解放されることができるのです。
そしてお釈迦様は、苦しみから解放されるための方法として、八つの修行を説かれました。これを八正道といいます。
八正道とは
苦しみから解放されるための方法として、すなわち真の安楽である涅槃の境地にいたる方法として、八正道が説かれました。
私たちの苦しみの原因は煩悩です。煩悩を消すことができれば、涅槃の境地にいたることができるわけです。
そして、そのための方法が八正道ということになります。
- 正見(正しい見方)
- 正思(正しい意思)
- 正語(正しいことば)
- 正業(正しい行動)
- 正命(正しい生活)
- 正精進(正しい努力)
- 正念(正しい注意)
- 正定(正しい精神統一)
これらは、八つそれぞれ別々に存在するのではなく、お互いがお互いと関係し合って成り立っています。
正しいものの見方をするために、正しい生活や正しい努力も当然必要であるし、正しい生活を行うためには正しい言葉も正しい行動も同時に行っていかなければいけません。
それは例えば病気になって病気を治療するとき、ただその病気に効く薬を飲んで治療するだけではいいというものではなく、そのほかにも食事をとって栄養をつけたり、十分に睡眠をとって身体を休ませたり、場合によっては不安をなくすような心のケアまでしたりすることと同じようなものです。
いかに薬だけを服用しても、身体が健康的に回復することなく、心が安定しなければ、薬の効果は十分に得られないでしょうし、健康な身体に回復しないでしょう。
そのように、苦しみの根本は煩悩であり、悟りのためにはその煩悩を取り除くことが必要であるにしても、それだけでは十分とはいえません。
自分自身のものの見方、考え方、行動など、心も体もすべてにおいて悟りに向けて改善していかなければいけないのです。
正見「正しいものの見方」とは
八正道の中でも特に大切なものが、「正見」です。
苦しみの原因である煩悩は、自分の心の中で作り出されています。この煩悩によって、間違ったものの見方を起こし、それに続いて間違った考え方がうまれ、間違った言葉を発し、間違った行動をし、結果として悟りから遠のいていつまでも苦しまなければいけないのです。
自分勝手な間違ったものの見方を捨てて、正しくものごとをみることで、ようやくそこから正しい行動が生まれ、智慧が生まれ、悟りにいたるのです。
では、何が正しいものの見方なのでしょうか?
それは、「ありのままにみる」ということです。
お釈迦様が説かれた仏教の世界観に基づいて、その世界観の通りにものごとをみることが大切です。
自分勝手なものの見方を捨てて、ありのままにものごとを見なければいけません。
この世は移ろい変わって行く無常の世界にあるのに、いつまでも永遠に存在すると考えたり、この世の本質は苦しみであるのに楽であると考えたり、確固たる自分というものは存在しないのに存在すると考えたり、この世は不浄であるにもかかわらず清らかなものと見たりすることは、間違ったものの見方です。
また、目標に向けて身体を痛めつけてまでがんばることも、反対に頑張ってもムダだからと怠けることも、間違ったものの見方です。
「間違ったものの見方」の根本は、煩悩という自分勝手な解釈によるものです。ものごとを見るときに、自分の都合に合わせて見てしまうので、ありのままに見ることができずに、結果として悩み苦しんでしまうのです。
現代社会でとても必要な「正見」
では、どうすれば正しいものの見方をする事ができるのでしょうか。
それにはまず、自分自身の心をよく知らなければいけません。つまり、「自分には煩悩が備わっているので、間違ったものの見方をしてしまうかもしれない」ということを前提に、ものごとを見なければいけないのです。
情報化社会といわれる現代、ちょっとネットを開けば有り余る情報があふれ出てきます。この情報の中には、事実だけでなく、間違った情報もかなり多くあります。そんな中にあって私たちには、ネットの情報を正しく見る力が求められています。
例えば、コロナ禍の中にあってワクチンに関するデマが飛び交いました。ワクチン接種によって不妊になるとの間違った情報です。
これに関する研究で、SNS上でワクチンと不妊に関するデマが拡散された約11万件のツイートのうち、約半数のおよそ53,000件のツイートの発信元が特定されました。その数はなんとわずか29のアカウントから発信されたものだったのです。
ほんのわずかの人が発した間違った情報が、それを鵜呑みにしてしまった人たちによって一気に拡散されてしまったのです。
私たちはこのように、一つの情報に関してそれが正しいか間違っているかを確認することなく、信じてしまうことがよくあります。
特に、知らない情報に関してはその傾向が強く、情報をそっくりそのまま鵜呑みにしてしまっています。
その原因は、私たちにものごとを正しく見る能力が欠けているということにあるのです。
「自分はものごとを正しく見ることができない」ということを知らずに起こした行動が、このようなデマ拡散という結果を招いているのです。
つまり、逆にいえば、「自分はものごとを正しく見ることができない」ということを前提にものごとを見ることができれば、「間違わないように行動しよう」という思いが生じて、慎重な行動をとることができます。
このようにして慎重に気をつけながら行動することが、仏教の教えに従って実践していく上で大切なことなのです。
最後に
私たちが生きる世界は、苦しみで満ちあふれています。
しかしお釈迦様は、その苦しみから解放されることができると説かれました。そして苦しみの原因は煩悩であり、それを打ち消すために八正道という八つの修行をする事を教えられました。
その中でも大切なのが、「正見(しょうけん)」であり、ものごとを正しく見る能力のことです。
私たちは、ものごとを正しくありのままに見ることができずに、煩悩によって自分勝手で都合のいいものの見方しかする事ができません。
自分勝手なものの見方から生じる行動が、周りの人を傷つけ、そして自分自身が悩み苦しむ原因になっているのです。
しかし、「自分は間違ったものの考え方しかできない」ということをよく理解しておけば、自分の行動は慎重になります。
慎重な行動が、悟りへの道であり、よりよい生活を育むためにも大切なものなのです。
正見と智慧について
仏教には「智慧」という言葉があります。
智慧は、ものごとを正しく見る能力のことをいいます。
「正見」という努力をすることによって、「智慧」という能力を授かります。逆に言えば、「智慧」を身につけることができれば、ものごとを正しく見ることができるということです。
仏教では最終的に智慧の獲得を目指しますが、正見はその手段としてとても大切なものなのです。