なぜ、他人のことばかり気になるのか
「夫が食べた食器を片づけてくれない」
「上司の話し声で集中できない」
「他人の食事マナーがなっていない」
私たちは、身近な人から赤の他人である芸能人の行動に至るまで、誰かの言動が気になって仕方がないことがあります。そして、この「気になる」という思いが募り、やがて大きなストレスに変わっていくのです。
では、なぜ私たちはこれほどまでに他人のことに囚われてしまうのでしょうか。
お釈迦様は、人間の性(さが)について、このような言葉を残されています。
他人の過失は見やすいけれども、自分の過失は見がたい。
人は他人の過失を籾殻(もみがら)のように吹き散らす。
しかし、自分の過失は隠してしまう。
狡猾(こうかつ)な賭博師(とばくし)が不利なさいの目をかくしてしまうように。
私たちは、自分の心を見つめることは難しいのに、「あの人はサボっている」「あの人のマナーが悪い」と、他人の行動はすぐに目についてしまいます。
たとえば、遠い存在である芸能人の不祥事に対して、多くの人が激しく批判します。どれだけ有名でも、私たちにとっては何の関係もない「赤の他人」です。それにもかかわらず、あれほどまでに意見や批判が飛び交うのは、私たちが他人の行動にどれほど注目し、心を乱されているかを物語っています。
実は、他人のことが気になる心理の根底には、「その人がうらやましい」という嫉妬心が隠れていることが少なくありません。
「あの人がサボって遊んでいる」と感じる気持ちの裏には、「自分は忙しいのに、遊べる時間があるのがうらやましい」という嫉妬があります。
「あの人はマナーが悪い」という不満の裏には、「自分は気を遣っているのに、あの人は自由でいい」という羨望が潜んでいます。
芸能人の不祥事への過度な批判も、「モテる」「お金がある」など、自分にはないものを持つ相手への嫉妬から生まれている場合があるのです。
しかし、私たちが気にしていることは、本当に事実でしょうか?それらは、私たちの心が作り上げた「妄想」にすぎないかもしれません。
私たちは、自分が見たい、あるいは都合のいい情報だけを見て、その中で勝手に判断し、相手の人物像や行動を決めつけています。
「あの人はサボって遊んでいる」のではなく、「あの人はサボって遊んでいるように見える」だけです。私たちが知らないところで、誰よりも努力しているかもしれません。
芸能人に対しても、私たちは勝手にイメージを作り上げ、「こういう人だ」と決めつけます。そして、不祥事が発覚すると、見えない部分まで妄想で補い、その妄想に対して嫉妬し、批判しているのです。
このような嫉妬心を「煩悩」といいますが、こうした煩悩から離れるように努力しなければ、いつまでたっても苦しみから解放されることはありません。
他人の間違いに目を向けるな。
他人がした事、しなかった事に目を向けるな。
ただ自分がやった事、やらなかった事だけを見つめよ。
お釈迦様は、他人の言動に目を向けるのではなく、自分の行動と心だけを見つめなさいと言われました。
他人のことをとやかく言っても、他人を変えることはできません。重要なのは、自分の心を変えていくことです。
悩みや苦しみは、他人の問題ではなく、自分の問題です。他人のことが気になって仕方が無いのも、自分の心の問題です。他人の言動に対し、自分がどう受け止めたかが、苦しみになるかどうかの分かれ道となります。
「自分が何を思っているのか」「自分が何をすべきなのか」「自分は何をしたのか」と、自分の心をしっかりと見つめなおすこと。これが、苦しみから解放され、安らかに生きるための道なのです。
供養なら、和歌山かんどり本山総持寺へ
自分の心を見つめることは、やがて私たちをしあわせな生き方へと導いてくれます。煩悩に振り回されず、清らかな心で生きていくためにも、他者や亡き人を思い、真心を尽くして行う「供養」を大切にしいます。
「供養」とは、このいただいた命への感謝であり、ご先祖様や故人様への報恩の心を形にする行いです。
和歌山市に位置するかんどり本山総持寺は、「いつでもお参りができるお寺」として、心の通う供養を大切にしています。仏さまやご先祖さま、故人を偲ぶ場所は、いつでも気軽に訪れられる場所であってほしい。そんな願いを形にしたのが当山です。
特に近年ニーズが高まるお納骨や永代供養についても、安心して任せていただけます。永代にわたる供養と管理を通じて、ご遺族様の負担を軽減し、「近いからいつでも会いに行ける」という安心感を提供します。
ご供養は、命をいただいて今を生きていることに感謝をし、自分自身の心も清める大切な行いです。しあわせな未来を生きていくために、ご供養は、歴史と安らぎに満ちたかんどり本山総持寺へ、ぜひご相談ください。