柳に風
1月5日は、二十四節気でいうところの「小寒」にあたります。
小寒は「寒の入り」ともいわれ、これからますます寒さが厳しくなっていくといわれています。
一番寒い日とされる「大寒」が1月20日、冬の寒さが終わり、これから温かくなって春を迎える「立春」が2月4日とされていますので、温かくなるまではもうしばらくかかりそうです。
和歌山はミカンや梅、柿など、果物がたくさんとれるので、温かくて温暖な、南国のような気候をイメージされやすいのですが、実は地域によって大きくことなります。
真言宗の総本山である金剛峯寺がある高野山は、冬になると雪が積もります。ここで修行をしている僧侶たちは、その厳しい寒さの中、冬を過ごさなければいけません。
冬の寒さは、修行僧にとって大きな敵なのであります。
そのことを思うと、総持寺のある和歌山市は比較的過ごしやすいところではあるかもしれませんが、海沿いの地域になると今度は風が強く吹き荒れます。
海から吹き上げてくる風は、建物の中にいてもその強さを感じさせるほどで、とても冷たく、山間部にいる寒さとはまた違う寒さを感じさせます。
そんな風にふかれて、道路沿いに立ち並ぶ木が音を立てて揺れ動きます。
強風にあおられ、一生懸命に倒されまいと風に立ち向かっていく木の姿を見ながら、私は、自分自身の心と重ね合わせるのでありました。
仏教には「忍辱」という言葉があります。堪え忍ぶという意味であります。
どんな困難にも負けず、堪え忍ぶことができる強靭な心を身に付けたいと、そう願うのであります。
江戸時代の臨済宗の禅僧で、仙厓和尚という人がおられました。仙厓和尚は画家でもあり、絵を描いて仏教の教えを人々に広めた人でもありました。
仙厓和尚の残された作品の中に「堪忍柳画賛(かんにんやなぎさん)」というものがあります。
中心には、しなやかに枝を風になびかせる柳の絵が描かれ、その横には太く大きな文字で「堪忍」と書かれています。
「堪忍」も「堪え忍ぶ」という意味であります。
この「堪忍柳画賛」には、このような歌がそえられています。
気に入らぬ
風もあろうに
柳かな
仙厓和尚讃
吹き付ける風の中には、耐えがたいような風もあることでしょう。しかし、柳の枝はそれに歯向かうことなく、風の流れに身を任せてそれをさらりとやり過ごします。
「柳に風」ということわざもありますが、柳のしなやかな枝のように、逆らうことなく柔軟に対応することを教えています。
そのように、柳と自分の様子を重ね合わせて、柔軟な心で耐え忍ぶことの大切さを説いているのであります。
この言葉はよく、「自分にとって気に入らない意見は、聞き流してしまいましょう」というような意味で解釈されていますが、私はそうは思わないのです。
「堪忍柳画賛」の名のとおり、「堪え忍ぶ」ことを教えているものだと思うのです。
これを教えるために、大きな文字で「堪忍」と書かれているのだと思うのです。
自分にとって気に入らない意見を聞き流すことは、堪え忍ぶこととは違う考え方になるのではないでしょうか。
自分のわがままを貫き通し、自分の欲のままに生きていきたいと思っているのが私たち人間であります。
しかし、そんなわがままや欲、ひいては、自分の思い通りにものごとをすすめめたいと思うことが、悩み苦しみのもとになっているのであります。
このようなわがままや欲を押し付けることなく、相手と接するように努めることが大切です。
何か困難なことがあったとき、自分のわがままを押し付けないようにして、柔軟な心で相手と接することが、「堪え忍ぶ」ことなのではないでしょうか。
さて、先ほど私は「どんな困難にも負けず、堪え忍ぶことのできる強靭な心」を身に付けたいと言いましたが、改めてそれがどのような心なのか、自問自答してみます。
すると、自分のやりたいことを思いのままにやり通すための心であるように思うのです。
つまりそれは、自分のわがままを押し通すための心であります。
このような自分勝手な心や自分勝手なふるまいは、他人を傷つけ、回りまわって自分をさらに苦しめることにもなります。
柳が風をしなやかに受け流すように、そのように柔軟な心で堪え忍んでいくことがどのようなことなのか、しっかりと考えなければと思うのであります。