鬼は外とはいうけれど
豆まきの季節がやってきました。
節分には豆をまき、家の中から鬼を追い払って福を招き入れます。
本来は季節の変わり目のことを節分といい、立春、立夏、立秋、立冬の前の日の、合計4日間が節分であり、そのうち立春は新年ととらえられておりました。
だから、立春の前日は一年の終わりであります。
一年の終わりである春の節分の日に、その年の邪鬼をはらい、気持ち新たに新年を迎えようとしたところに、今の節分行事の起源があるといわれております。
次第に、この日には豆をまいて鬼を払い、また焼いた鰯の頭を柊と一緒に串に刺して玄関に飾るというヤイカガシも行われるようになりました。
鬼は鰯の匂いをひどくいやがり、柊の棘は「鬼の目つき」といわれて鬼が恐れるとされております。
子どもの頃は、私も焼いた鰯の匂いが嫌で、鼻をつまんで玄関を通ったことを思い出します。
鬼が近寄れないだけでなく、人間も近寄れないなら、意味がないじゃないかとさえ思いました。
今では鬼も人間も、そうたいして変わらないと思うのでありますが・・・
豆をまくときには「鬼は外、福は内」と声を出します。
悪い鬼は外へ追い払い、代わりに福を呼び寄せるのです。
場所や地域によっては、かけ声がかわるそうです。
節分の豆まきで有名な、千葉県の成田山新勝寺では「福は内」しか言わないそうです。
それは、ご本尊である不動明王が、鬼でさえ改心させてしまうので追い払う必要はないと考えるからであるといわれています。
東京浅草の浅草寺では「千秋万歳福は内」と言って、ここでも鬼は外とは言いません。
ご本尊の観音様の前には鬼はいないとし、また千秋万歳と言って長寿を願うのだそうです。
「鬼は内、福は外」と言って豆をまく人もいるそうです。
これには驚きました。
普通なら、鬼はできるだけ私の近くには来てほしくないし、幸福はできるだけ多く私の元にやってきてほしいと思うものであります。
聞いてみるとここには、「みんなが嫌って追い払うような悪い鬼は、私が全部引き受けましょう、そして、私の持つ幸福は、みんなに分けて差し上げましょう」という気持ちが込められているそうです。
なるほどと、痛く感動をいたしました。
まさに、仏道をいく菩薩の精神であります。
きっとその人のもとに集まった鬼たちも、改心して悪い鬼から善い鬼に変わることでありましょう。
古い歌に、
「鬼も悟れば仏となり、仏も迷えば鬼となる」
とあります。
仏は迷いを完全に断ち切っているので、鬼になることはありませんが、たとえとしては面白いものであります。
子どもの頃、授業で節分の話になったとき、「鬼には絶対に家の中に来てもらいたくない」と言った同級生に対して、先生の言ったことばを思い出します。
「鬼は自分の中にいるんだよ。自分の中にいる鬼を追い出すんだよ」
鬼は自分を惑わし、苦しみをあたえるために外からやってくるのではない、実は自分の心の中にも鬼がいて、きっかけを見つけてはいつでも出てくるようにと構えているんだということでありました。
ニュースを見ておりますと、凶悪な犯罪があとを絶ちません。
そして、犯人がどんな人物だったかというインタビューに対して答える人の多くは「まさかあんなことをするなんて」と声をそろえるようにして言います。
しかし、これは他人事ではないのであります。
自分もきっかけさえあれば、同じことをしかねない人間なのであります。
総本山光明寺第69世関本諦承上人は、生き物の生きる道には三つあると言いました。
禽獣は己の為に他を犠牲に供す
人は己の為にすると同時に他のためにす
仏は他の為に己を犠牲に供す
「関本諦承全集」
として、禽獣の道、人の道、仏の道があるといいました。
禽獣は自分の私利私欲の為には親もなければ兄弟もない、あらゆるものをおのれの欲望のままに犠牲にしたとしても厭うことはない。
また仏は、自分はいかなる苦痛を受けても、いかなる犠牲に供せられても、少しも厭うことはなく、少しも苦痛とせず、ただ他の利益あらんことを欲し、他の幸福ならんことを喜ぶのであります。
そして人の道というのは、きっかけさえあれば禽獣のようにおのれのために他を犠牲にすることを厭わないし、反対にきっかけさえあれば仏のように自分を犠牲にしても他の為に働くこともできます。
そして、
「人として生まれたからには、仏の道を行かなければいけない」
といい、この仏の道を行くことを仏道というのであります。
「鬼は外」とは言いながら、鬼は他人事ではありません。
自分の心の中の、自分勝手な思いこそが、鬼の正体なのでありましょう。
豆を投げながら、心の中の鬼を追い払い、仏の道を行くように心がけているのであります。