手を打てば「ハイ」と答える鳥逃げる
先日、近所の神社にお参りをしたときのことです。
それほど大きくはありませんが、厳かで風格のある神社であります。
そのときは、周りには誰もおらず、とても静かでありました。
鳥の声が、神社の境内に響いています。
靴が砂利を踏む音が聞こえてきます。
いつになく、気持ちのよい時間を過ごしているような感覚です。
鳥居をくぐると、まずは手水社で手を洗い、口をすすいで身を清めます。
そして、本殿の前までやって来ます。
気持ちばかりのお賽銭を入れると、作法にならって二礼二拍手一礼をしてお参りをします。
後ろに順番を待つ人がいると、ついつい焦り気味になってしまいますが、そんなことを気にする必要もありません。
今は神さまと私の二人きりです。
いつもより丁寧に二度のお辞儀をすると、景気よく、パンパンと手をたたきました。
と、そのときです。
突然の音に驚いたのか、近くにいた鳥が慌てるようにして飛んでいってしまったのであります。
神さまと向かい合っていた私も、一瞬にして意識が鳥の方に向いてしまいました。
同時に、願い事もどこかへ飛んでいってしまい、何をお願いするつもりだったのか、そのまま思い出せなかったのであります。
なんとも情けない話であります。
昔から
「手を打てばハイと答える鳥逃げる鯉は集まる猿沢の池」
という歌が残っています。
猿沢の池は、奈良にある池で、興福寺が行う放生会において生き物を放つ池であることでも知られています。
この猿沢池にちなんだ歌や話は多く残されているようであります。
この池の縁に立って手をポンポンとたたけば、「ハイ」と答えてやってくるのは女中さんです。
またこの音を聞いて驚き、鳥は飛び立ちます。
池の中を泳ぐ鯉は、手をたたく音を聞いて餌がもらえると思い、寄ってきます。
そんな猿沢池の様子を詠んだ歌であります。
不思議なものです。
「手をたたく」というひとつの事象に対して、みんなそれぞれ違う反応を示すのであります。
ぽんと手をたたく音が、女中さんにとってみればそれは自分を呼ぶ音であるし、鳥にとっては危険な音に思うし、鯉にとっては餌の時間を知らせてくれるのです。
お釈迦様は、
「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される」
といって、ものごとのすべては自分の心が作り出しているのだと説きました。
そして、自分の都合のいいように判断しているのです。
例えば、コップの中に水が半分入っているとします。
これを見て、半分「しか」と思うのか、それとも半分「も」と思うのか、それは人それぞれだと思います。
しかしどちらに思うにしても、見ているものは同じです。
同じものを見て、違う思いを起こしているのであります。
さて、願い事を忘れてしまった私でありますが、そのまま思い出すことなく帰宅をしました。
そして数分前にあった出来事を家族に話すと、
「それでは意味が無いじゃないか、何をしに神社へ行ったのか」
と笑われてしまいました。
しかし、私自身はというと、不思議とすがすがしい気持ちでありました。
誰にも邪魔されず、気を遣うことなく、お参りができたのであります。
とても気持ちのいい時間を過ごすことができたことは、私にとってお願い事をすることよりも大きな悦びだったのであります。
心の受け取り方次第で、善くも悪くも見え方が変わるのであります。