陰徳を積む

陰徳を積むとは?写真はイメージ

陰徳を積む

修行や行いによって身についた特性のことを、徳といいます。

いい行いをして徳を積むことで、その結果としていい果報がえられたり、あるいは死後には今よりもいい世界に生まれ変わることができます。

反対に、徳を積まずに悪いことをしていると、その結果として悪いことが自分におそいかかり、死後には地獄などの苦しみの世界に落ちることになってしまうのです。

人のいるところや見られているところでは、徳を積むことはたやすいかもしれません。

「見られている」と思うだけで、自然と悪いことはできないものであります。

ところが、見られていないところで善いことをして徳を積むというのは、とても難しいものであります。

人に知られないところで密かに積む徳のことを「陰徳」といいます。

見られていないから、誰も知らないから、という理由で、ついつい悪を働かせてしまいますが、これを続けていると、いざというときにも人の前で善を行うことができず、迷惑をかけてしまうことにもなってしまいます。

「陰徳」こそ、たくさん積んでいきたいものであります。

その昔の、ある鋳掛屋の男の話です。

夏の日の夕方、仕事が終わって、道具箱を担いで帰路についていました。

ある橋までやって来たとき、ふと橋の下を見てみると、一艘の船が流れてきました。

その船には、商家の若旦那が芸者さんを大勢引き連れて、愉快そうに酒を飲んでいます。

それを見た男は、気が短い性格もあって、持っていた道具箱を川の中へ投げ込むと、家にももどらずにそのまま盗賊になってしまったというのであります。

しかしその生活も長くは続かず、捕らえられて罪に問われてしまいました。

なぜ盗賊になったのかと聞かれた男は、「短く太く生きて、あのときに見た若旦那のように愉快なことを極めようと思ったのが原因だ」と答えたのであります。

とても哀れな男であると感じます。

それと同時に、自分自身の姿と重ね合わせてしまいます。

鋳掛屋の男が見た若旦那は、芸者さんと酒を飲む愉快な様子です。

きっと誰が見ても、お金持ちの男が贅沢をして遊んでいるように見えるでしょう。

しかし、その裏では血のにじむような苦労や努力をしているかもしれません。

朝早くから仕事にいそしみ、町内のあちこちを走り回り、汗水流して働いているので、それなりに贅沢のできるお金を持ち合わせているのかもしれないとは、凡夫の私たちにはなかなか思い至らない部分であります。

以前、高級車を乗る方にお会いしたときのことです。

「とても儲かっているのですね」と何気なく言ったとき、「みんなにそう言われるけど、今の仕事に就くまでに何年も勉強して、苦労して試験に合格して、必死で仕事してきてるんです。でも、そんな過去のことを知らずに、高級車に乗ってるところだけを見てうらやましがるんです」と言われました。

しまった、とても失礼なことを言ってしまったと、大きく悔やんだ言葉でありました。

この方にしろ、先の物語の若旦那にしろ、見えないところで努力している結果が、見えるところに表れているのであります。

鋳掛屋の男はどうでしょうか。

目先の欲だけを追い求め、まっとうな仕事を捨てて盗賊となってしまった。

陰で悪事を働く人間になってしまったのです。

そのようにして悪いことをしていれば、その報いは必ず自分にやってきます。

結局、太く短く愉快に生きることも叶わず、人生を台無しにしてしまったのであります。

総本山光明寺69世関本諦承上人は、「仏陀の清き徳風に遵行し、そして陰徳を積むことが実に愉快なことであり、楽しいことであるという程の心地にまで達したなら、そこに真実の徳が行わるるのである」といいます。

お釈迦様の教えに従って仏道修行に励み、悦びが生じてきたならば、そこに本当の仏教徒としての真実の生き方が確立されてくるのであります。

そして関本上人は「つまり陰徳を積むということは仏陀の冥見の下に自己の本分を尽くすということになるのであります。これが信仰より来たるところの陰徳である」といいます。

私たちの信仰のありかたは、仏の慈悲の中に日常生活があると受け取るところにあります。

仏さまの徳の一部が、私の徳となって表れて出てきているのであります。

誰も見ていなくても、仏さまは見ています。

そのことを忘れず、陰徳を積み、徳のある人間になりたいものであります。

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