【赤松明秀上人】紀州浄土宗の礎を築いた偉人

赤松明秀上人の生涯

和歌山市にある総持寺は、宝徳2年(1450年)に赤松明秀上人によって開かれました。このお寺は、紀州一帯の浄土宗西山派(後の西山浄土宗)を束ねる本山として発展し、今や泉南・和歌山地域に広がる約160の西山浄土宗寺院の精神的な中心となっています。この地域に法然上人のお念仏の教えが深く根付いたのは、まさに明秀上人の尽力によるものです。

名門の血筋と出家への道

明秀上人は、応永10年(1403年)に播磨国(現在の兵庫県)の揖保郡広山で生まれました。その血筋は、南北朝時代に活躍した武将・赤松則村を曾祖父に持ち、さらに村上天皇を祖とする村上源氏の末裔と伝えられる名門です。

幼い頃から仏の道に惹かれ、10歳または17歳頃という若い時期に出家を果たします。向かった先は、故郷から遠く離れた上野国(現在の群馬県)にある善導寺でした。当時、善導寺は西山流の学問の中心地(談義所)として全国に知られ、高僧を数多く輩出していました。明秀上人は、徹底した教育を受けたいという熱意から、この充実した環境を求めて播磨を後にしたのです。

紀州への布教と総持寺の創建

善導寺で研鑽を積んだ明秀上人は、全国へ布教に飛び立つ多くの兄弟子たちと同じく、自らも念仏の教えを広める活動に力を注ぎました。

上人が布教の地として選んだのは、紀州(和歌山)でした。長い旅路の末にたどり着いたのが、現在の総持寺がある梶取の地です。ここで藤木延春という人物の支援を受け、明秀上人48歳の時、ついに**総持寺を開創(宝徳2年・1450年)**します。

総持寺を拠点として、明秀上人の布教活動は紀州各地に広がっていきました。その教えは多くの人々の心を掴み、他の宗派だった寺院が西山派に改宗する例も少なくなかったといいます。

晩年の偉業と往生

晩年、明秀上人は自ら開いた竹園社に移り住み、精力的な活動を続けました。各地での教化活動に加えて、多くの書物を書き残しました。特に『愚要鈔(ぐようしょう)』は、西山派の教えを自問自答形式でわかりやすく説いた問答集で、出家者だけでなく一般の人々にも布教するための優れた教材となりました。

その情熱は衰えることを知らず、83歳で失明した後もなお筆を執り、後世に伝わる著作を完成させました。

長享元年(1487年)6月10日、明秀上人は85歳往生されました。晩年を過ごした竹園社には、生前に自ら用意したお墓があり、そこに遺骨が納められました。この墓所は代々受け継がれ、総持寺を開いた偉大な上人の墓として、今も大切に守られ続けています。

途切れぬ信仰:総持寺の発展

明秀上人が亡くなった後も、その教えは弟子たちに受け継がれました。弟子たちはさらに多くの寺院を開き、その結果、現在では約160に及ぶ寺院が明秀上人と直接的、間接的に関わりを持ちながら展開しています。

明秀上人が最初に開いた総持寺は、浄土宗西山派の本山として、これらの寺院を束ねる中心地へと発展しました。現在は**西山浄土宗の檀林(だんりん:僧侶の学問所)**として、その教化活動の始まりの地として、多くの檀信徒と僧侶から厚い信仰を集めています。