観音菩薩のような生き方
「我れは浄土門の教へに依りて深く阿弥陀如来を信仰するものであるが、同時に亦厚く彼の如来の助化者たる観世音菩薩を崇敬するものである」
当寺の御一代である、総本山光明寺の69世、関本諦承上人はそのように言葉を残されました。
阿弥陀仏を信仰すると同じように、観音菩薩を信仰されたというのであります。
菩薩とは、仏と成るために修行をしている最中の人のことをいいます。
それも、自らの心を整えていく自利の行だけでなく、他のすべての人々を救いとるという利他行にも励んでいるのです。
見方を変えるならば、この世には救われがたい罪深き凡夫が数え切れない程おり、そうした凡夫をすべて救うという思いを実現するために、仏と成るために努力しているのであります。
観音菩薩は、33の姿に変化し、19の説法によって人々を救いとるといわれています。
善導大師は『往生礼讃』のなかで「観音菩薩の大慈悲は、すでに菩提を得れども捨てて證せず。」「つねに百億光王の手を舒べて、普く有縁を摂して本国に帰る」といいます。
観音菩薩はすでに悟りを得ているのですが、あえてその境地にいたらず、仏にはならず、菩薩のままでいろいろな手段を用いて人々を救っているというのであります。
例えばそれば、会社で社長や重役になるほどの能力を持っているにもかかわらず、あえてその職に就かずに一般社員と同じ立場ではたらき続けているようなものであります。
私は学生時代に、そこにどういう意味があるのかと疑問に思ったことがあります。
そこで当時の先生に聞いたことがあります。
なぜ観音菩薩は仏にならないのか。
するとその先生は。「菩薩の姿の方が、人々が慣れ親しみやすいからである」と教えてくれたのであります。
仏と違い、菩薩には宝冠も首飾りも着けられています。
見た目の姿だけをとってみても、いろいろな指輪やネックレスなどで着飾っている私たちの姿に近しい姿をしています。
また、立場をとってみても、「社長さん」とよばれている人と話をするより「社員さん」とよばれている人のほうが、親しみを感じて話をしやすいものです。
私自身も、檀家さんから「住職よりあなたの方が話をしやすい」と言われたことが何度もあります。
立場がかわるだけで、少し気構えてしまうのは、どこの世界にもあるものなのかもしれません。
このように、私たち凡夫に身近に感じられるところからも、日本でも観音信仰が広まって、さまざまな観音菩薩が祀られ信仰されるようになっていったそうであります。
また、観音菩薩の姿で特に大事な部分が、頭の上に阿弥陀仏の化身を乗せているというところであります。
これは、観音菩薩も阿弥陀仏の救いの中にあり、阿弥陀仏と同じの心を持ち、阿弥陀仏と同じだけの人を救う力があることを表しているのだというのであります。
『観無量寿経』のなかには「仏心とは大慈悲これなり」とあるように、阿弥陀仏の慈悲の心を、観音菩薩ももっている。
だから慈悲の菩薩であるというのであります。
「我れの弥陀を信ずる信仰より来る実行の理想は観音菩薩を以て模範とするのである」
関本上人は、こうした観音菩薩の姿こそが、私たちが生きていく上で理想の姿であるというのであります。
阿弥陀仏の力で生かされて生きている、その信仰を持つならば、それは観音菩薩とも変わることのない立派な菩薩であります。
心に仏を戴き、他のために一生懸命に働くことのできる、観音菩薩のような生き方をしていきたいものであります。