「学問スルハ心ヲ直サン為ナリ」
奈良の西大寺中興の祖といわれる、鎌倉時代の名僧に、叡尊上人という人がいます。
のちに朝廷から「興正菩薩」の諡号を授かり、現在にまで広く知られています。
叡尊の説法を弟子が記録して書き写し、伝えられているものに「興正菩薩御教誡聴聞集」という書物があります。
78項目あるなかで、第一項が、学問についての説法です。
或時ノ御教訓云、学問スルハ、心ヲナヲサム為ナリ。当世ノ人ハ物ヲヨク読付ムトノミシテ心ヲナヲサムト思ヘルハナシ。学問ト申ハ、先其ノ義ノ趣ヲ心得テ常ニ我心ヲ聖教ノ如クナリヤ否ト知ナリ。我心ヲ聖教ノ鏡ニアテテ見ルニ、教ニ背クトコロヲバ止メ、自ラアタルヲバ弥ハゲマシ、道ニススムヲ学問トハ申ナリ、只暫ク文字ヲバイツモ読付ラレヨ。先イソギ各心ヲ直サルベシ。心ヲ直サヌ学問シテ何ノ詮カアル。イカニ聖教ヲ習トイヘドモ、菩提心ナキ人ハ冥加ナキ也。只ヨロヅヲ差置テ菩提心ヲ発テ、其上ニ修行スベシ。足手ヲ安不シテ修行スルヲバ所依ト名ク。心ヲ直スヲモテ修行ノ源トスベシト云々。
ある時のご教訓で(叡尊上人)がおっしゃった。
「学問をするのは、心を正すためである。今の人は上手に読めるようになろうとばかりして、心を正そうと思っている人はいない。学問というのは、まずその教えの言おうとしているところを理解して、いつも自分の心がその教えに伴っているかどうかを知るものである」
現代の私たちの心にも、そのまま深く突き刺さる思いが致します。
今の時代、スマホ1つでなんでも簡単に調べられるようになりました。
勉強しようと思えば、いくらでも簡単に勉強できるようになったのです。
しかし、何のために勉強しているのでしょうか。
相手と討論して意見を交わすためや、単なる他者とのコミュニケーションのツールとしての雑学で終っていないでしょうか。
叡尊は、学問は自分の心を整えるためにあるといいます。
つまり、学んだことは実践しなければ意味がないということです。
こどもの頃に学校で「みんな仲良くしましょう」と習いました。
そんなことは、今さら言われなくてもよくよくわかっていることです。
しかし大人になった今、みんな仲良くしているでしょうか。
正義の名の下に武力を行使して人を殺したり、人を罵ってケンカをしたりしていないでしょうか。
結局、学んだことを実践できていないのが、私たち人間であります。
「心ヲ直サヌ学問シテ何ノ詮カアル」
心を正さない学問をして、何の意味があるのでしょうか。
学んだならば、その教えに従って自分の行動を正していくところに、本当の学問の意味があるのです。