私はどちらかといえば、怒りっぽい性格をしています。表面には出さないようにしていますが、すぐに腹を立て、心の中では怒りが次から次へとふつふつと沸いて出てきます。
あるときふと、なぜ「腹が立つ」というのか気になりました。怒りの感情をあらわにするとき、なぜ腹が立つというのでしょうか。
調べてみると、おもしろい話がでてきました。
その昔日本では、腹の中に心があると考えられていたというのです。武士が切腹をするのも、腹の中にある心を切り開き、自分の全てを相手にさらけ出すという意味があるというのです。
そのように、腹の中にある感情が立つようにしてあらわれ出す所から、腹が立つというようになったというのでした。
なるほどと思いながら、そういえば「腹」にまつわる慣用句もかなりたくさんあることを思い出されます。
腹を立てる
腹をくくる
腹を決める
腹を割って話す
腹黒い
腹が据わる
腹に収める
腹を抱える
腹を探る
こういうところからも、腹に心があったと考えられていたのは、なるほどそのとおりだと考えさせられます。
かつて先輩から、「知る」ことと「理解」することは違うと教わりました。
「知る」のはただ知識として頭で知ること。「知識」
「理解」するのは心で受け入れること。「智慧」
例えば、人は必ず死ななければいけません。それは幼い子どもでもわかっていることです。ではなぜ、そんなわかっていることが目の前で起きたときに、人は泣くのでしょうか。
それは、単なる知識として知っているだけに過ぎないことで、本当に心の中で理解していない、智慧として身についていないからだということです。
私たち凡夫は、この「智慧」がないばかりに、嘆き悲しんでいるのだというのです。
そして先輩は、智慧が身につくことを「腑に落ちる」「腹に落ちる」という言葉で表現されました。「腑」は五臓六腑のことで、表面的な言葉だけでは言い表すことができないような喜びや感情が、内臓の隅々にまで染み渡るように、体の中、心の奥底にまでいたることだというのです。
腑に落ちれば、例えば「ありがとう」の一言でも、その言葉の重みが驚くほど変わってくるのです。
情報にあふれている現代社会において、頭で考え、言語化していく能力が求められています。しかし、本当に見ていくべきはもっと奥深くにあるのではないかと思うのです。
鈴木大拙の話で「アメリカ人が「頭で物を考える」と言うと、アフリカ人が驚いて「私たちは腹で物を考えるのだ」と言った」というのがあります。
自分が行動しているその裏には、頭で考えることができないもの、言語化できないもの、そうした偉大なるものと一緒に生きてきたということを忘れてはいけないということです。

