【ネットの誹謗中傷から身を守る】仏教で考える「ネット」との賢い付き合い方

ネット社会の光と影

インターネットが浸透した現代社会で、その環境に悩み苦しむ人々が増えています。私たちはこの便利なネット社会と、どのように向き合っていくべきでしょうか。

ネットは、私たちの生活を便利で楽にするツールである一方、他人を傷つけ、そして自分自身が苦しむことにつながるという恐ろしさも秘めています。

実は、このネット社会の仕組みは、仏教で説かれる「業(ごう・カルマ)」の考え方と非常によく似ています。本記事では、ブッダの教えを手がかりに、ネットの誹謗中傷や、ネットから受けた心の傷との向き合い方をご紹介します。

苦しみの原因は「業(カルマ)」にある

仏教において、あらゆる苦しみを生む原因は「」にあるとされます。私たち人間は、この業によっていつまでも苦しみの連鎖から抜け出せないでいるのです。

自業自得」という言葉の通り、良い行いをすれば良い結果が自分に返り、悪い行いをすれば悪い結果が降りかかってきます。このシステムは、短期的な時間軸だけでなく、「輪廻」という永遠の時間の中で起こっていると考えられています。現世で善行を積めば、来世でより良い世界に生まれ変わることができる、というわけです。今、私たちが人間として生きているのも、前世の業によるものだとされます。

業というシステムは、仏教以前からインド社会に根付いていましたが、ブッダもその考え方を受け入れました。そして、この輪廻という永遠の苦しみの連鎖を断ち切る方法を説いたのが、仏教なのです。

「業」の三原則がネット社会に現れる

人間が行った行動は「業」として蓄積され、善い行いは善業、悪い行いは悪業となり、その蓄積された業が次に生まれる世界を決めるとされます。業には以下の三原則があります。

  1. 第一原則: 人がおこなった善悪の行為は、すべてが洩れなく記録されていく
  2. 第二原則: 記録された善悪の行為は、業という潜在的エネルギーとなって保存され、いつか必ず、なんらかのかたちで、当の本人にその果をもたらす
  3. 第三原則: 業のエネルギーがその果をもたらす場合、それがどのようなかたちでもたらされるかは予測不可能であり、原因となる善悪の行為から、その結果を推測することはできない

これらブッダが説いた仏教の教えは、この世の真理を説いており、2500年前も現代も、その本質は変わりません。科学が発達した現代でも、急速に便利になったネット社会の中に、この業の三原則が姿を現し始めています。これが「ネットカルマ」と呼ばれるものです。

インターネットは「お見通し」

手軽に交流でき、家にいながら買い物もできる便利なインターネットは、同時に苦しみの原因にもなります。苦しみの原因が業にあるなら、ネットにも業のシステムを見出すことで、その状況をより深く理解できます。

第一原則:ネットはすべてを記録する

「人間がおこなった善悪の行為はすべてもれなく記録される」という業の第一原則は、ネットの世界でも当てはまります。

インターネットにアクセスすれば、誰がいつどこでログインしたかがわかります。SNSへの書き込みや、ブログ・動画への投稿は、目に見える形で洩れなくネット上に残されていくのです。

さらに、現代では町の防犯カメラやドライブレコーダー、個人のスマホの普及により、人々の行動は瞬時に記録され、公開されることもあります。

かつては「お天道様がお見通し」と言われましたが、今や「インターネットはお見通し」と言えるほど、私たちのあらゆる行動が記録されています。これはまさに業の第一原則そのものでしょう。

第二・第三原則:予測不可能なネット環境

仏教では、蓄積された業のエネルギーは「いつか必ず何らかの形で当人に結果をもたらし(第二原則)」、それが「いつ、どのような形でもたらされるかは予測不可能で推測できない(第三原則)」とされます。

これもネット社会に共通します。

例えば、SNS上の行為が炎上という形で本人に返ってくることがあります。これがいつ、どんな形でもたらされるかは予測不可能です。

また、若者のイタズラがスマホの映像によって瞬時に犯人が特定されたり、ネット上の断片的な情報から個人情報が集められ、身元が特定されることも容易になりました。身元が特定された後、どんな形で自分に影響が出るか、予測することはできません

ネットカルマの「悪質性」

ネットカルマの恐ろしい点は、従来の仏教の業のシステムよりも悪質になっていることです。

仏教の業のシステムでは、自分が作った業の報いは、その行為に応じた分だけしか返ってきません。やったこと以上の結果は起こらないとされます。

しかし、ネットカルマは違います。

  1. 情報が歪められる: ネットに蓄積された断片的な情報は、誰かの手によって集められ、歪められて構成されることがあります。間違った情報が含まれていたり、必要な情報が省かれていたりするため、実際とは違う人物像が作り上げられてしまいます。
  2. 過剰な報いがくる: ネット上で「叩く」行為によって本人に報いが及びますが、情報が歪んでいるにもかかわらず、ネットにある情報だけで判断され、自分が行った行為以上の誹謗中傷を浴びせられることになります。

例えば、軽いイタズラが炎上し、その人の個人情報(名前、住所、学校、家族など)が一瞬にして特定され、無数の誹謗中傷や非難の的となることは、現代では珍しくありません。

断片的な情報から作られた人物像を世間がどのように見るかは、誰も予想できません。便利なはずのネットが、命にかかわる出来事を引き起こすことも少なくなく、実際にSNSの誹謗中傷が原因で自ら命を絶ったという痛ましいニュースは、人々に大きな衝撃を与えました。

自分がネットカルマによる苦しみを受けないようにすることはもちろん大切ですが、誰かにこの苦しみを与えないよう、細心の注意を払う必要もあります。

ネットとの賢い向き合い方

ネットカルマによって苦しむことがないよう、インターネットとの付き合い方をしっかりと見直しましょう。

1. 投稿する前に深く考える

SNSや動画投稿サイトに何かを投稿する前に、まずは「その投稿をしてもいいかどうか」を考えましょう。それがだと思うことができたら投稿し、だと思うならやめるべきです。

「善か悪か」の判断基準は、「その時だけ楽だから善」「苦しみをもたらすから悪」といった短絡的な考えで決めてはいけません

自分の行為は業として蓄積され、突然何らかの形で自分に返ってきます。ネット上でも、投稿したものは蓄積され、何らかの形で返ってきます。その投稿が自分に返ってきたとき、好ましい結果をもたらすかどうかをよく考えなければならないのです。

2. 日常生活を見直す

ネット社会から完全に抜け出すことはできません。私たちは、いつもどこかで誰かに見られているという環境にいるのです。

であれば、いつ誰に見られても問題ない行動をしていれば、自分が誹謗中傷を浴びて苦しむことはなくなるでしょう。

仏教の「戒(かい)」とは、日常生活でしなければならないこと、してはいけないことを定めて、生活習慣の質を向上させることをいいます。私たちの行動の基本は日常生活から始まります。

誰が見ても恥ずかしくない生き方をしていれば、ネット社会による苦しみに遭うこともないはずです。

3. 自分の価値観を磨く(智慧)

これは言い換えれば、「正しい知識を身につける」ということです。仏教では「智慧(ちえ)」と呼びます。

人間は、ついつい自分勝手なものの見方をして、他人を考えずに自分中心に行動してしまいがちです。特にネットでは匿名で投稿できるため、自分の悪い部分が表に出やすくなります。たとえネット上であっても自分勝手な考えで行動すれば、それは悪業として自分に襲い掛かってきます。

自分勝手なものの見方を捨てて、正しい見方を持ち、智慧を身につけることができれば、たとえ誰かに批判されても冷静に対処できるでしょう。あふれる情報に惑わされず、正しい価値観を持つことで、ネットカルマの中でも苦しむことなく対応できるはずです。

苦しみを断ち切る道筋:供養という行為

さて、私たちはネット社会の仕組みの中に、仏教でいう「」の恐ろしさ、すなわちネットカルマを見出しました。自分が意図せずして悪業を積んでしまったり、あるいは誰かの悪業によって苦しめられたりする中で、私たちはどうすればこの苦しみの連鎖を断ち切ることができるのでしょうか。

仏教の教えは、この永遠の苦しみから抜け出す方法を説いています。自分自身の生き方を見直し正しい智慧を身につけることが大切です。その方法として、「供養」という行いを大切にしています。

供養とは、単に亡くなった方への儀式だけを指すのではありません。本来、供養には、仏や菩薩、そしてご先祖様に対して心から敬い感謝を捧げるとともに、善業を積むという意味があります。この善業を積むという行為こそが、私たち自身の悪業を清め、苦しみを生む業の負の連鎖を断ち切るための有効な手段となるのです。

ネット社会で誰かを傷つけてしまうような言動をしないためには、普段から自分の心を清らかに保っていなければいけません。「供養」をして積極的に善を積み重ねることによって、自分の心の中の悪業を清め、未来に良い結果をもたらす種(善業)を蒔くことが、業の苦しみから救われる道なのです。

供養なら、和歌山かんどり本山「総持寺」へ

和歌山市に位置するかんどり本山総持寺は、「いつでもお参りができるお寺」として、心の通う供養を大切にしています。ご先祖様や故人を偲ぶ場所は、いつでも気軽に訪れられる場所であってほしい。そんな願いを形にしたのが当山です。

特に近年ニーズが高まるお納骨永代供養についても、安心して任せていただけます。永代にわたる供養と管理を通じて、ご遺族様の負担を軽減し、「近いからいつでも会いに行ける」という安心感を提供します。

ご供養は、故人への感謝を捧げ、自分自身の心も清める大切な行いです。ご家族の未来を見据えた供養をご検討の方は、歴史と安らぎに満ちたかんどり本山総持寺へ、ぜひご相談ください。

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