なぜお彼岸は一年に二回あるのか?

お彼岸はなぜ一年に二回あるのか?目線を変えて紹介します。 写真:ぱくたそ

お彼岸が一年に二回ある理由

今日彼岸 菩提の種を まく日かな

これは、松尾芭蕉の詠んだ歌として伝えられています。

「菩提」とは「智慧」を意味していて、つまりは智慧を得るための行いをしましょうというのが、お彼岸なのです。

そして「智慧」は古代インドの言葉で「パーラミター」というのにならい、お彼岸では「六波羅蜜」という6つの修行をすることを教えています。

それは、

  • 布施
  • 持戒
  • 忍辱
  • 精進
  • 禅定
  • 智慧

の六つをいいます。

関連六波羅蜜とは?語源やお彼岸との関係について

 

さて、今回は少し視点を変えて見てみましょう。

お彼岸は春と秋の二回ありますが、なぜ一年に二回、お彼岸の法要をするのでしょうか?ご先祖さまの供養はは一度してればいいんじゃないか、と思う人も、多いのではないかと思います。

一年に二回お彼岸をする理由。

そこには、繰り返し行うという意味が含まれています。

人間はすぐに忘れてしまう生き物です。年に一度といわず、何度も何度も繰り返し行っていくことが必要なのです。

お彼岸になれば、多くの人がお寺やお墓へお参りをし、ご先祖様の供養をするでしょう。

ご先祖様を供養し、お寺で法話を聞くことで、仏の心が養われます。

すなわち、よりよい人格が形成されて、そこから生きがいのある生活が開けてくるのです。

どういうことかというと、例えばお寺で「いいことをしましょう、悪いことはやめましょう」という話を聞いたとします。そこで「ああ確かにその通りだ」と納得すると、そのときには「私もいいことをして悪いことはやめるように心がけよう」と思います。しかし、日にちがたつとどうでしょうか。実践することをやめ、お寺で聞いたことも忘れてしまうのではないでしょうか。

お墓参りをしてご先祖様に手を合わすと、今の自分はご先祖様のおかげ、先に亡くなった人のおかげと、故人を思い、偲び、感謝の心がわいてくるでしょう。しかし、時間がたてばその心も消えてなくなってしまいます。

そのときには頑張ろう、感謝しよう、ありがたい、などの清らかな心が育まれるのに、時間がたてば忘れてしまっているのが人間です。

何かモノを取りに行って、トイレに立ち寄ったら何を取りに来たのか忘れ、そもそもモノを取りに来たこと自体忘れてしまうほど、集中力の続かないのが人間です。

春にお寺へお参りしても、そこで聞いた話のほとんどは秋のお彼岸の時には覚えていないことがほとんどです。

だからこまめに思い出し、実践する時間を作らなければいけないのです。

今日彼岸 菩提の種を まく日かな

松尾芭蕉はお彼岸を「菩提の種をまく日」だと詠みました。「花を咲かす日」とは詠まなかったのです。

春にまいた種は、縁が実れば芽が出て花が咲きます。しかし、芽が出ずに花が咲かないこともあります。花が咲かなければ、また種をまけばいいのです。

何回も何回も話を聞いて、実践して、努力して、そうしていい心を養っていい人格を形成していくのです。

お墓参りをしてご先祖様を供養するのは、できることなら毎日するのがいいのです。毎日ご先祖様を供養して、心を養っていくのがいいのです。

しかし、なかなか日常生活の中ではできません。だから、二回あるお彼岸をご縁にして、心を養っていくのです。

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