西山上人の生涯
西山浄土宗の流祖である西山上人は、加賀国の源親季(みなもとのちかすえ)の長男として、治承元年(1177)11月9日に生まれました。9歳の時、内大臣である久我通親(こがのみちちか)が前途有望な人材であるとして、その猶子となります。
そして14歳、元服するときのことです。仏教に帰依する心がとても厚く、深く菩提の心を持っていて、出家をしたいと願い出ました。しかし、一家の後継者であるために、父はそれを許しません。それを見ていた母親は大変心を痛め、橋占いをすることになります。(橋占いとは、その橋を通る人の言行から占いをすること)
一条戻橋にいって、橋占いをしたところ、法華経普門品を唱えて西へ向かう僧侶に出会いました。その結果、これは立派な僧侶になるに違いないと思い、子供の願いに任せて出家を許されたのです。
出家することを認めた父ですが、さて、どこのお寺に入れようかと考えます。もとより久我家という立派な家柄である以上、有力な大寺院に入れて、一宗一派を代表するような僧侶になってほしいと願います。御室の仁和寺や醍醐の三宝院、比叡山延暦寺など、名刹寺院を候補に挙げますが、子供はいずれのところにも納得しません。
それではどこがいいのかと尋ねると、「法然上人の弟子になりたいです。それ以外のところでは出家したくありません。」と答えます。
現代でこそ浄土宗を開いた人物として大変有名ですが、当時はまだまだ名の通った人物ではありません。父は驚いたものの、子供の強い意志にかなわず、希望通りに願いが聞き入れられました。
時に法然上人は54歳。そこへ14歳という若さで自分の元へとやってきた少年と対面し、その志に大きく感激しました。そして「この子こそまさに我が真実の弟子となるだろう」喜んで、その日のうちに出家をすることを許されたのです。しかも、法然上人自らが、剃髪の儀式を執り行ったといわれています。
このとき、名前を「善慧房證空」と授けられ、浄土三部経などのお経を読み習い、ここから出家生活が始まりました。以来、法然上人より親しく仏教を修学することになります。
入室の後は、法然上人からお念仏の教えを学ぶだけでなく、天台宗や真言宗など、ほかの各宗派の教義も勉強します。天台宗の慈鎮和尚の元で天大密教の教えを学び、公円阿闍梨から灌頂を受けて伝法の許可を受けました。慈鎮和尚は師範でありながらも、未来の善知識と頼まれて礼を尽くして死後のことを託されましたので、約束通りに慈鎮和尚の中陰法要の導師を務めるなど、早くからその秀才ぶりを発揮されたのです。
その後西山上人は、京都西山にある往生院(現在の三鈷寺)を拠点に活動をされます。善峯寺の一代であった源算上人が、隠居されるに当たって善峯寺の西北に往生院というお堂を建立されました。その後、観性上人、慈鎮和尚へと譲り受けられます。そして慈鎮和尚から西山上人へと譲り受けられ、ここが活動の拠点となります。山の形が密教の法具である「三鈷」の形に似ていることから、観性上人の頃から「三鈷寺」と呼ばれています。
またこの頃から、往生院の場所が京都の西山にあるので、「西山の上人」「西山上人(せいざんしょうにん)」と人々から呼ばれるようになりました。
西山上人が高齢になっても活動が弱まることがありません。晩年は、白川の遣迎院で過ごされました。遣迎院は、九条道家の願いによって西山上人を開山として仰ぎ、創建されたお寺です。西山上人は、臨終が近づいた頃になっても、それまでと変わらずに人々に教えを説きました。臨終の際には、いろいろな不思議な出来事を目の当たりにしたという人が多くあったといわれています。
そして宝治元年(1247)11月26日、白川の遣迎院にて、71歳をもって亡くなりました。
遺骸は、往生院の傍らに華台廟というお墓を造ってそこに移されました。高僧や貴族たちが西山上人のご威徳を偲び、中陰の間にはたくさんの人がお参りしたといわれています。
般舟讃の発見
建保5年(1217)西山上人41歳の時のことです。
当時御室所とよばれていた御室にある仁和寺で、経蔵の虫干しをしていると聞いたので様子を見にいきました。すると偶然にも、たくさんある書物の中から、善導大師が書かれた「般舟讃」という書物を発見されたのです。それまで「般舟讃」があることはわかっていたのですが、書物自体の存在が知られていませんでした。これはまさに大発見です。
法然上人の亡き後、後継者として各地でお念仏の教えを説いて回っていた西山上人ですが、あちこちで法然上人の教えと違うといって異議を唱える人が多くありました。そうした中で、この「般舟」の発見は、西山上人のいうことを裏付けるものとなったのです。法然上人と西山上人のいうことが少しも違わないことが証明され、異論を唱えていた人々も次第に納得していったのです。
こうしたことでますます西山上人の学徳が噂になって広まり、やがて野々宮左大臣から「彌天の善慧上人(みてんのぜんねしょうにん)」と賞賛されることにもなりました。
選択本願念仏集の執筆に携わる
選択本願念仏集は、時の関白である九条兼実の願いによって、法然上人が撰述されました。これは、法然上人のお念仏の教えをまとめて書き上げた書物です。
これを作成するに当たり、法然上人はわずか数人の弟子とともに撰述されました。その際「勘文」という役を仰せつかったのが、西山上人です。勘文とは、法然上人の言葉の整合性を確認するために、お経を開いて確認するという、とても重要な役目です。
さらに、九条兼実が「法然上人の亡き後、疑問が生じたときには、誰に尋ねればよいでしょうか」と尋ねたとき、法然上人は「弟子の善慧房(西山上人のこと)にお尋ねください。私のすべてを伝えてあります」とまで言われました。そこで正治元年、九条兼実のお召しによって西山上人が参殿し、法然上人に変わって選択集の講義をされました。
それほど法然上人は、西山上人に信頼を置いていたのです。
当麻曼陀羅の拝見
寛喜元年(1229)53歳の時です。
薩生坊という者が、西山上人の教えが当麻曼陀羅の絵相と同じであるというので、弟子とともに當麻寺へと参詣しました。當麻寺は麻呂子皇子の開基で、役行者が修行をしたところでもあります。そこには、天宝字7年、中将姫の誓願に応じてやってきた尼僧の力により、蓮糸で一晩で織り表された曼荼羅図が本尊として祀られています。
西山上人は本尊である当麻曼陀羅を見てみますと、不思議にも普段説いている教えと何もかもが一致しているということに気がつきます。その感激のあまり、弟子の実信房は思わず涙を流したほどでした。
當麻寺の曼荼羅厨子の古扉にはたくさんの僧俗の名前が書き連ねられています。その中に「沙門證空」の名前が「當麻寺寺僧分」として記されています。その下に弟子たちの名前があり、最後に「仁治三歳次壬寅五月二十三日大勧進禅良」と記されています。このことからわかるように、何度も當麻寺を訪れて曼荼羅を拝んでいたことがうかがえます。
その後、当麻曼陀羅を模写して関東へ教化した際に諸寺に寄進しています。
夢中の十一面観音
「西山国師絵伝」によると、少し変わった行跡がうかがえます。
天福2年(1234)のこと、源弘という僧侶が夢の中で、桂川の西側の丘に登ってみると、二重の楼門に回廊がある荘厳で美しい客殿が見えました。門の下には僧侶が入ったり出たりしている様子がうかがえます。
源弘がそこから中に入って尋ねてみますと、「ここは西山上人の御座所である。西山上人は十一面観音の化身であり、門下のものは一寸六分の観音像を造って護寺すべきである」と教えられました。そして、安置してある観音像を参拝されたのです。
夢から覚めた源弘は、喜んでこの夢のことを書き綴り、すぐにほかの弟子にも伝えられました。