『私はしばしば仏を忘れるが、仏は私をわすれない』
記憶力が大切だということを、今になってつくづく感じます。
お経を読んでいても、参考書をひもといても、すぐに記憶できないので何度も何度も見直し、あれはどこだこれはどこだと探すのにほとんどの時間を費やしてしまいます。
挙げ句の果てには、どこに本を置いたか忘れるという始末。
効率よくものごとをすすめるためにも、記憶することはとても大切なのであります。
お釈迦様の弟子であるチュラパンタカは、あまりにも記憶力において乏しかったといわれています。
たったひとつの教えでさえ覚えて理解することのできなかったチュラパンタカは、あるとき、出家生活をやめてしまおうと考えました。
そんなとき、お釈迦様に白い布を渡されて、「垢をはらわん」と言って毎日これをよく観察しなさいと言われ、これによって悟りを開いたと伝えられています。
まだ文字が発達していなかった当時、学問などの勉強するときは、口から口へとことばで伝えられていました。
だから、チュラパンタカのように、記憶力が悪いということは、仏教を勉強をする上で致命的だったのであります。
弟子から弟子へと伝えられたお釈迦様のことばは、時を経て文字になって残され、中国で漢字に訳されました。
そのとき、「記憶する」という意味のことばは「念」と訳されました。
念仏の「念」であります。
念仏とは、もともと心に仏さまを思い、その姿や功徳をつねに記憶して忘れないことをいったのです。
その後、善導大師が「十念」を「十声」と説いたことを受けて、法然上人は念仏とは声に出して唱えることであるとしたのであります。
さらに西山上人は
必ずしも口にとなへたるばかりが名号にてはなき也。
西山善慧上人御法語
といいいました。
口で唱えるだけが念仏ではないといったのです。
どういうことかというと、
南無は迷の衆生の体也。覚りと云ふは阿弥陀仏の体なり。この二が一になりたる所を仏につけては正覚といひ、凡夫につけては往生と云ふ也。此の謂れをこゝろえたるを、三心とも帰命とも南無とも発願とも帰依とも正念とも憶念とも菩提心ともあまたに申す也。よくよく心うべき也。
『西山善慧上人御法語』
として、阿弥陀仏の成仏のいわれと、衆生の往生の関係をよく理解することが大切だというのであります。
阿弥陀仏は、四十八願をたてられ、その中の第十八願で、念仏するものはすべて救うと誓いました。
そして、この願が成就して仏となられました。
つまり、阿弥陀仏の成仏は、衆生の往生と同時に起こっているのであります。
南無阿弥陀仏と唱えることも大切ですが、阿弥陀仏が仏となったといういわれを理解する事こそが、西山上人の説く念仏なのであります。
私たち衆生は阿弥陀仏の力なくして往生することはできませんが、阿弥陀仏からみれば救う対象である衆生がいなければ仏となることができないのです。
衆生と阿弥陀仏とは、お互いが離れることなく一体となって存在しているのです。
これを、機法一体というのであります。
一体であるということは、私が仏さまのことを忘れても、仏さまは私から離れることなくいつも一緒にいてくださるということです。
これはまるで、影のようであります。
私が右に行けば右に、左に行けば左にと、どこへ行くにも影がついてきます。
建物の中に入っても、電気を消した暗闇の中でも、形を変えて必ずどこかにあらわれます。
子どもの頃は、影が不思議で仕方ありませんでした。
なにをしても自分と同じ動作をし、光の当たり具合で大きくなったり小さくなったり、色が濃くも薄くもなります。
後ろにあった影が、気づけば前に来ていることもあります。
どうすれば影から逃げることができるか、真剣に考えたこともありました。
こうして毎日のように気にしていた影のことも、次第にそれが当たり前になり、そして影の存在を気にもとめなくなりました。
しかし、こちらがその存在を忘れていても、離れることなくいつもそこにあることは変わりません。
仏さまと私たちの関係も同じなのであります。
私と仏さまとは一体であるがゆえに、私がしばしば仏さまを忘れても、仏さまは私を忘れることがないのであります。
念仏することを忘れていも、私を忘れずにいつも一緒にいてくださるその心を知り、あらためて報恩感謝の念仏に励むのであります。