自分を愛するということ

自分を愛するということ

自分を愛するということ

お寺の境内に、少しですが水仙の花が植えられています。

ちょうど今の季節になると、静かにひっそりと花が咲きます。

咲いた花は、庭からいただいて一輪挿しなどに入れて、部屋などに飾ることがあります。

今朝、部屋に入ると、フワッと水仙の花の香りが漂ってきました。

忙しい朝の時間も、花の香りに包まれると、一瞬時を止めて別の世界に行ったような、そんな不思議な感覚を覚えるのであります。

少し水仙について調べてみました。

水仙という名前は、「仙人は、天にあるを天仙、地にあるを地仙、水にあるを水仙」という中国の古典から来ているそうです。

白くきれいな花の姿と、かぐわしいその香りが、まるで仙人のようにすばらしく、また水辺に近いところに咲くことから、水仙というのであります。

また、水仙は学名をナルキッソスというそうで、これはギリシャ神話の登場人物であるナルキッソスという人に由来するそうです。

ナルキッソスは、若さと美貌の持ち主で、多くの女性から愛されていました。

しかし、ナルキッソスはその愛に答えるどころか、女性の贈り物を侮辱したともいわれています。

このように傲慢な態度で女性を傷つけるナルキッソスを見て怒った女神は、彼に自分以外の人間を愛せなくなるという呪いをかけました。

あるときナルキッソスは、水面に映った自分の顔を見て、恋をしました。

呪いのせいで、自分で自分に恋をしたのです。

しかし悲しいことに、水に映る美少年から離れることができず、そのまま水に落ちて溺れて死んでしまいました。

そして、ナルキッソスが死んだその場所には、水仙の花が咲いていたというのであります。

不思議な話であります。

悲しいというか、切ないというか、そんな思いがいたします。

また、このナルキッソスの神話が元になって、水仙には「自己愛(ナルシシズム)」という花言葉が付けられました。

ナルシシズムといわれると、なんだかあまりいいイメージがわかないかもしれません。

しかし、自分を愛することは大切なことではないかと思うのであります。

修行時代、学校の先生からどのような僧侶になりたいかと聞かれたことがあります。

ちょうどそのころ授業で、自分を犠牲にしてまで他者を助けたり、教えを求めるといった物語を習ったばかりでありました。

なるほど、菩薩の道は自分をかえりみず他人の為に行動することなのだと、感銘を受けたのであります。

その影響もあって、私は「自分をさしおいてでも、誰かを助けることができるようになりたい」と答えました。

先生は、なるほどとうなずきながら、「じゃあ自分の事は好きですか?」と聞いてきました。

やらなければいけないとわかっていながらやらず、サボってばかりいた私は、そんな自分の事が大嫌いでありました。

すぐに私は、「自分の事は嫌いです」と返事をすると、先生は「じゃあまずは自分の事を好きになってください。好きになれなくても、自分を否定せずに認めてあげてください」というのでした。

自分のことを大切にできなければ、他人を助けることはできないというのであります。

例えばものごとについて、自分が理解していなければ、相手にそれを教えることができません。

同じように、自分を愛する方法を理解し、自分を大切にすることで、同じように相手を愛し大切にすることにつながるというのです。

お釈迦様は

「先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことが無いであろう。」

と教えられています。

相手に教える前に、自分を正しく整えなければいけません。

人を愛するということも、同じではないでしょうか。

西山上人は

「衆生の重んずる宝、いのちに過ぎたるはなし」

といいます。

人間だれもが、命が一番大切であるというのであります。

自分の命が大切で、誰にも傷つけられたくないと思いながら生きています。

それと同じように、相手もまた、自分の命が大切で、誰にも傷つけられたくないと思っていることでしょう。

相手も自分と同じ気持ちなんだと言うことに気がつけば、きっと相手を大切にしなければいけないという思いが芽生えてくるはずです。

だから、まずは自分を好きになるようにと教わったのであります。

さて、それから十数年たちましたが、いまだに私は自分のことが好きになれません。

もしかしたら、修行していた時代よりも自分のことが嫌いになっているようにさえ思います。

いっそのことナルキッソスのように、呪いをかけられてしまえばいいのにとさえ、思うのでありました。

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