
人道と仏道
仏教とは、およそ2600年前にインドでお釈迦さまが説かれた教えのことです。
お釈迦さまは悟りを開き、仏となられました。
仏とは「目覚めた人」という意味であり、この世の真理に目覚めたことを意味するのです。
釈迦という仏さまが説いた教えなので、仏教というのです。
また、仏教という言葉にはもうひとつの意味があります。
それは「仏と成る教え」ということです。
お釈迦さまが説かれた教えに基づいて、自ら修行することによって、仏教を信仰する私たちも仏と成ることを勧めているのであります。
「仏と成る」といわれても、いまいちピンとこないかもしれません。
これを、総本山光明寺69世である関本諦承上人は、「仏のような人」というような表現をしています。
生き物の生きる道には、おおよそ3つに分けることができます。
それは禽獣の道、人の道、仏の道であります。
「禽獣は己の為に他を犠牲に供す
人は己の為にすると同時に他の為にす
仏は他の為に己を犠牲に供す」
禽獣の道は、自分の欲望のためなら親もなければ兄弟もない、あらゆるものを自分の欲望の犠牲にして厭いはなく、それを満足している生き方です。
それ以外に満足する道を知らず、ただ自分の欲望のためだけに生きる道のことです。
仏の道はその反対で、自分はいかなる苦痛を受けても、いかなる犠牲に供せられても、厭うことも苦痛ともせず、他者の利益を願い、他者の幸福を喜ぶ生き方です。
それはまるで子どもを思う親のごとく、他者の喜びを自分の喜びとし、他者の幸福を自分の幸福とするのです。
さてそれでは、人とはどのような道でありましょうか。
人の道は、ときには自分の欲望を満たすために他者を傷つけても何も思わないこともあれば、他者のために苦労を惜しむことなく働くことができる、禽獣と仏の間の道のことです。
きっかけさえあれば、獣にも仏にもなれるというのが、人であります。
その昔、ある国に一人の乱暴者の男がおりました。
あまりに乱暴を働き、他人を傷つけてばかりいるので、周りの人たちは男の顔を見ると逃げて隠れるようになっていました。
ところが男は、周りの人がなぜ逃げるようにして隠れているのか、その理由がわかりませんでした。
あるとき、ひとりの老人とで出会い、男は老人に尋ねました。
「なぜ人々は隠れているのですか?」
すると老人は答えました。
「今、この国にはみっつの災いがある。
ひとつは、山に虎が出て、人を食い殺している。
ふたつは、川に大蛇が出て、人に襲いかかっている。
みっつは、おまえがこの国の災いだ」
これを聞いてはじめて男は、自分がどれほど人を傷つけてきたかということに気がつき、そして悔い改めました。
今まで人を傷つけた代わりに、これからは人のために働こうと誓ったのです。
そして、すぐさま山へ向かうと虎を退治し、川へいって大蛇を追い払って、人々をこれらの災いから救ったというのであります。
そしてそれより已後、人々のために善に励み、人々から慕われ、尊敬されるような人間になったのでありました。
人を傷つけ、畜生同然の生き方をしていた男でありますが、今では真の人間と立ち帰ったのみならず、仏のように尊敬されるような存在となったのであります。
禽獣の道、人の道、仏の道とありますが、人として生まれたからには、仏の道を行かなければいけません。
そして、仏の道のことを「仏道」というのです。
人が歩むべき道は、仏の道であります。
関本上人は、「人道とは即ち仏道である」と言葉を残しているのであります。
現代を生きる私たちは、自分の力で煩悩を取り除くことができないので、現世で仏と成ることができないといわれています。
しかし、「仏のような人」になることはできます。
『観無量寿経』の中には
「仏心とは大慈悲これなり」
とあります。
仏の心は大いなる慈悲の心であります。
慈悲とは、相手を思いやる心のこと。つねに相手に思いやりをもって接することができる人が、仏のような人なのであります。