わかったつもり
6月になると、毎年友人から梅を送っていただきます。
これを自家製の梅干しにするのが、毎年の楽しみになっております。
数年前、息子がまだ幼稚園に通っていた頃のことです。
いつものように友人から梅がひと箱届きました。
宅配便で受け取ると、すぐに息子がやって来て、この箱は何かと聞いてきました。
これは梅だよと答えると、見たいというので、すぐに箱を開けました。
開けると、ほんのり黄みがかった、取れたての青梅がぎっしり詰まっていました。
ほのかに甘い、桃のようなフルーツの香りが、一瞬にして広がります。
さすがは紀州の南高梅。心躍るような、立派な梅の実であります。
香りを堪能していると、見ていた息子が言いました。
「これ、梅と違うやん」
私は「いやいや、これは梅やで」と返すと、
「梅はもっとしわしわで、茶色で、酸っぱい匂いするで」
と息子が言いました。
なるほど、息子にとって青梅を見るのはこれが初めてで、梅といえば加工した梅干しのことしか知らないのであります。
そこで、いつも食事の時に食べているのは梅干しで、もともとこのように青い色をした実であること、これを加工することで、息子が知っているような梅干しになることを説明しました。
「じゃあ梅干し作ってみたい」
というので、その年は初めて息子にも梅干し作りを手伝ってもらいました。
丁寧に水洗いし、へたを取ります。
そして塩漬けにします。
樽の中に、塩、梅、塩、梅と、交互に入れていき、全部の梅を入れ終わると、息子はじーっと中の梅を見つめだしました。
そして言いました。
「なかなか茶色になってこないなぁ」
「そんなすぐにはならないよ。このままひと月くらい漬けといて、それから干して、もう少し寝かせて、それでようやくおいしい梅干しになるんやで」
このように説明してあげると、すぐに完成しないことに少し残念そうな様子でありました。
息子は、梅干しだけを見て、梅を知ったつもりになっていたのです。
たったひとつぶの梅干しが、たくさんの手間と時間をかけてようやく出来上がることに、その遠き初めて気づいたのであります。
この様子を見ながら、大人も同じだと思いました。
あるひとつの様子だけを見て、ものごとのすべてを知ったつもりになっているのであります。
梅干しは青梅を漬けて作ったものであることは、当然知っていることでありますが、樽の中で梅がどのように変化していくかを事細かに知っている人はほとんどいないでしょう。
さらにさかのぼれば、梅を育てるために、農家の人がどれほどの苦労をし、どんな思いで汗水流してきたかを、そのすべてを知ることはできません。
しかし、「農家さんが苦労して梅を作ってる」という言葉だけをとって、その苦労をわかったつもりになっているのであります。
梅干しひとつとっても、私には量ることのできない多くの力や、多くの人の苦労や、思いが、その中にあるのであります。
法然上人は「一枚起請文」の中で
「知者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」
といいました。
「知者のふるまいをせず」とは、知者のようにわかったつもりになってはいけないということです。
梅干しひとつ食べるのにも、量ることのできない力が働いているのです。
量ることができないのに、量ることができたと思うことで、うぬぼれや傲慢の心が起こり、そこからあ苦しみに変わるのであります。
この量ることのできない力を「無量光」といい、言葉を換えると「阿弥陀」というのです。
量ることができないなら、量ることができないとそのまま受け取り、感謝の思いで過ごすことをすすめているのであります。
お釈迦様も
「もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。」
と言葉を残されています。
自分はものごとをよく知っているという人ほど、偉そうに見えたり、怒ったりしているように見えるのは、こういうことなのではないでしょうか。
知れば知るほど、自分の無力に気づかされるはずです。
法然上人はこれを「愚に還る」といいました。
愚に還ったところの言葉が、「知者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」なのであります。