忙しい、忙しい

忙しい、忙しい

「忙しい忙しいと言っている人間は、自ら進んで忙しい人生を送っているくせに、「時間がない」などと言う。時間がないのではなく、欲張りなのだ」

9月6日付けの日経新聞夕刊のエッセイである「プロムナード」の冒頭で、くどうれいんさんがこのように記事を書いていました。

そして、この文章のすぐあとに「わたしは」とあるところを見ると、欲張っているのはくどうさん本人であることがわかります。

なるほど、これはおもしろい見方だなと関心をいたしました。

私も、とにかく忙しい毎日を過ごしていた時期があります。

思えばその時は、あれもこれも、「私がやります!」という具合に、何でもかんでも仕事を引き受けていました。

言い方を変えれば、自分でなければその仕事ができないと思っていました。

なんとも傲慢で、欲張りなのでありましょうか。

ところが、たくさんの仕事を引き受けてしまうと、冷静な判断ができなくなってしまうという、自分の欠点に気がつきました。

余裕がなくなり、周りがきちんと見えなくなってしまうのであります。

くどうさんは、「忙しい忙しいと言っているわたしは、忙しくないと不安なのだと思う」と言います。

そして、忙しく走り回っているときが、一番楽しそうなのだそうです。

忙しさにも、それが自分に合う人と会わない人がいて、人それぞれ感じ方が違うところに、とても面白さを感じるのであります。

お釈迦様は出家をして、世俗を離れて生活をしました。

出家者は、自ら生産活動を放棄した生活をしています。

食事は毎朝町まで行って、家々を回り、食べ物を恵んでもらう托鉢を行います。

衣類は使われなくなったボロ切れを集めて、それらを縫い合わせて身にまといます。

信者がふえると、信者の布施によって生活を安定させていきます。

食事や衣類も、きちんと整えられたものを布施というかたちで受け取ります。

出家者たちが住む場所も、信者の布施によって整えられました。

自分たちの財産をすべて放棄した出家者たちは、信者の布施によってその生活の一切をまかなっていたのであります。

それでは、仕事もせず、生産活動を行わない出家者たちは、ヒマだったのかというと、そうではありません。

修行をするのに忙しかったのであります。

出家とは、お金を持っているのが幸せ、あるいは家庭をもつことが幸せといったような、世俗の価値観を離れて、別の価値観で生活をする人であります。

モノに頼らずに真の幸せを見つけるためには、心を整えなければいけません。

この、心を整えるための行いが、修行です。

お釈迦様や出家者たちは、自分の心を整えるために、時間のすべてを使っていたのであります。

また、法然上人は、生活のすべてをお念仏に捧げました。

念仏とは、阿弥陀仏を信じ、信仰する心そのものであります。

南無阿弥陀仏と称えることも念仏でありますが、それは信仰する心を行動に表したとき、それがもっとも簡単な方法なので、法然上人はそれを勧めたのであり、信仰そのものが念仏であると受け取るのであります。

法然上人は身も心も阿弥陀仏一色だったのでありましょう。

『和語灯録』のなかに

「衣食住の三は、念仏の助業なり」

とあります。

今の生活のすべては、衣食住にすべてが捧げられています。

着るものも、食事も、住む所も、日常生活を豊かにするために、自分の時間が使われています。

しかし、そこに本当の幸せがあるのでしょうか。

法然上人は、念仏をするために食事をし、生活をしていたのであります。

つまり、自分が生きがいとしていることを生活の中心に置き、それを行っていく為の身体と心を整えるために衣食住の生活があるのであります。

法然上人も、念仏することに忙しい毎日を送っていたことだと思います。

忙しい日常の中にも、喜びや生きがいを見いだすことができれば、きっそそれが本当の幸せにつながるのかもしれません。

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