「主人公」は仏教用語!自分を見失わないための心の軸

ラーメンは麺が主役? スープが主役?どちらも欠かせない大切な存在

先日、友人とラーメンの話題で盛り上がりました。

「ラーメン」という名前だから麺が主役だという人もいれば、「個性」や「決め手」はスープにあるからスープが主役だという人もいます。どちらが正しいという答えはありませんが、面白い論争になりました。

ラーメンは、麺とスープ、そしてメンマやナルトなどの具材があり、それらが丼鉢の中に揃うことで、初めて一つの食べ物として成り立ちます。

そして、麺には麺の良さがあり、スープにはスープの良さがあります。それぞれがお互いの持ち味を活かし、邪魔をしないからこそ、最高においしい一杯が出来上がるのです。

この関係は、私たち「人間」の世界にも当てはまるのではないでしょうか。

人や物、出来事であふれたこの世の中ですが、実はその中に不要なものは一つもありません。

私たちは、つい自分を卑下したり、「どうせ私なんて」と考えてしまいがちですが、私たち一人ひとりも、この世界を構成する上で、ラーメンの麺やスープのように、なくてはならない大切な存在なのです。

映画や小説などの物語の中心人物を「主人公」といいます。

実はこの言葉、もともとは禅宗のお坊さんが使っていた仏教用語なのです。その意味は、「自分の中の本当の自分」。

昔、瑞巌(ずいがん)和尚という方がいました。和尚は、毎日自分に向かって「主人公」と呼びかけ、「はい」と自分で返事をしていました。

「主人公」「はい」

「目を覚ましているか」「はい」

「世間にながされるなよ」「はい」

和尚は、このようにして、常に自分の中の「本当の自分」を意識し、対話をしていたといいます。私たちは、仕事や人間関係の中で、つい周りに流されて自分を見失いがちです。だからこそ、和尚は、常に「自分の中の自分」に意識を置いていたのでしょう。

しかし、「自分の中の本当の自分」というものは、なかなか難しいものです。では、「本当の自分」は一体どこにいるのでしょうか。

考えてみると、私たちは場面に応じてさまざまな「自分」を演じ分けています。

会社に行けば「社員」としての自分、家では「父親」「母親」としての自分。

電車に乗れば「乗客」、お店に入れば「お客さん」としての自分。

状況だけではありません。

腹が立ったときには「怒っている自分」

うれしいときには「喜んでいる自分」

つらいときには「悲しんでいる自分」

これらすべてが「本当の自分」なのです。

「もっとわがままでいたい」と思う自分も、欲望を抑えて他人に優しく接する自分も、その時々ですべてが本当の自分に他なりません。

会社にいるとき、学校にいるとき、自宅にいるとき、そして一人でいるとき。 どんな状況、どんな感情のときでも、あなたは人生の「主人公」なのです。

そのときどきの自分を否定したり、無理に着飾ったりする必要はありません。

一つ一つ変化していく「自分」というものをしっかりと受け止め、「これも自分だ」と確認しながら大切にしていきましょう。

供養なら、和歌山かんどり本山総持寺へ

私たちは、この一瞬一瞬を「独り」で生きているわけではありません。常に、仏さまやご先祖さまといった大いなる存在の見守りと救いの中にあります。

遥か昔から連綿と続く命のリレーの中で、無数のご縁とご尽力によって、私たちは今ここにいます。平穏無事に今日も生活できるのは、すべてその大きな力のお陰です。この事実に気づくとき、私たちは自然と感謝の念を抱かずにはいられません。

この感謝の気持を行動に表したのが、「供養」です。

「供養」とは、このいただいた命への感謝であり、ご先祖様や故人様への報恩の心を形にする行いです。

和歌山市に位置するかんどり本山総持寺は、「いつでもお参りができるお寺」として、心の通う供養を大切にしています。仏さまやご先祖さま、故人を偲ぶ場所は、いつでも気軽に訪れられる場所であってほしい。そんな願いを形にしたのが当山です。

特に近年ニーズが高まるお納骨永代供養についても、安心して任せていただけます。永代にわたる供養と管理を通じて、ご遺族様の負担を軽減し、「近いからいつでも会いに行ける」という安心感を提供します。

ご供養は、命をいただいて今を生きていることに感謝をし、自分自身の心も清める大切な行いです。しあわせな未来を生きていくために、ご供養は、歴史と安らぎに満ちたかんどり本山総持寺へ、ぜひご相談ください。