自燈明と法燈明

自燈明と法燈明。燈明は仏の光のあらわれである。写真はイメージ

自燈明と法燈明

先日、用事があって寝るのが遅くなったときのことです。

家族が寝静まった深夜に、寝室へと入ります。

部屋は真っ暗で、何も見えません。

電気を付けると起こしてしまう恐れがあるので、真っ暗闇の中をそのまま布団へ向かいます。

そろそろと足音を立てないように、静かに2、3歩ほど進んだときです。

ガンと思いっきりタンスの角に足の小指をぶつけてしまいました。

あまりの痛さでありながら、寝ている人を起こしてしまうかもしれないので声を出すことができません。

必死で堪えながら、手探りで布団を探します。

這うようにして、どうにか寝床についたのでありました。

暗闇で周りが見えないということは、大きな不安であります。

例えば足元に何か物が置いてあれば、そこに足をぶつけてけがをしてしまうかもしれません。

大きな穴があっても、暗闇で見えなければ穴に落ちてしまうでしょう。

一瞬先は闇という言葉がありますが、私たちの人生も同じなのです。

暗闇の中を一人歩いているようなものなのです。

一歩間違えたら人生のどん底に落ちてしまうような道を歩いているのであります。

しかし、暗闇の中に光があれば、確実に一歩ずつ進んでいくことができます。

お寺やお仏壇でお勤めをするとき、必ずろうそくを立てて明かりを灯します。

これは仏の智慧の光をあらわしているとされています。

智慧とは、ものごとを正しく見る力のことです。

私たちには、ものごとを正しく見る力がありません。

煩悩の趣くままに、自分勝手にものごとを見ているから、悩み苦しみ、つらい思いをしているのです。

そんな私たちにかわって、仏さまが道を照らしてくださるのであります。

お釈迦様は亡くなる直前、「自燈明、法燈明」と言って言葉を残されました。

お釈迦様が亡き後、何をよりどころとして生きていけばいいのかと尋ねた弟子に対して、自らをよりどころし、仏の法をよりどころとしなさいと教えられたのです。

今、悩み苦しんでいるのは誰でしょうか。

それは他でもない、自分であります。

また、そこから抜け出したいと願い、悟りを求めているのは誰でしょうか。

それもまた、自分なのであります。

釈迦様は「自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか?」とも言葉を残しておられます。

他者に惑わされることなく、悟りへの道を自分で切り開いていかなければいけないのであります。

また、その道しるべとなるものが法です。

法はこの世の真理であります。

諸行は無常であり、諸法は無我であることを理解し、その真理に背くことなく生きなさいということであります。

また、わが宗に於いていえば、阿弥陀仏の本願による救いの中にいることを知りなさいということであります。

これをよりどころとして、明るい未来を生きていくことを教えたのであります。

総本山光明寺の法主である沢田教英上人は、この「自燈明、法燈明」について、このようにお話をされました。

自燈明とは、「みんなで支えている世界なのですから、自分もその一人としてしっかり負かされたことができるようになりなさい。もし、自分が手を抜けば、どこかの誰かがつらい思いをすることになる」

法燈明は、「自分一人では何も成し遂げることができません。人とのつながりを大切にすることなのですよ。それが充実した人生となるのです」

なるほど、とてもわかりやすい表現であると心を打たれました。

沢田上人は、茶道にも精通しておられ、裏千家の正教授という資格をもち、ご自身で教室を開くなどされていたそうです。

そんな上人があるとき、茶道の道具には何一つ同じ物がないことに気がついたそうです。

違ったものが集まって、それぞれが任された仕事を行うことで、楽しい一刻を作り出すことができるのだというのです。

それがまさに、上人の「自燈明、法燈明」の見方となったのであります。

自分自身も大切なひとりであり、誰かのおかげで生きている。

そのことに気がつけば、きっと光あふれた明るい未来が見えてくるのでありましょう。

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