何事も習慣から始まる

何事も習慣から始まる

今日本中が「オオタニサン」で盛り上がっています。

いや、盛り上がり自体は以前からでありますが、アメリカで活躍するスーパースターが日本にいるということで、これまで以上の熱狂を見せています。

ワールドベースボールクラシックが日本で開催されています。

いわゆる、野球の世界大会で、日本は3大会ぶりの優勝を目指して奮闘しています。

野球にはあまり詳しくありませんが、日本の活躍をテレビを通して応援しております。

野球に限らず、スポーツを見ていていつも思うことがあります。

それは、選手の並々ならぬ基礎的な技術の上にプレーが成り立っているということです。

例えば野球は、直径約70センチのボールを投げ、それをバットで打ち、グローブでキャッチします。

選手は、ごく当たり前のようにそれを行っていますが、素人にはボールを思った場所に投げることができません。

打つことに至っては、バットにボールがかすりもしません。

あるいはサッカーならば、足で器用にボールを操ります。

私自身、子どもの頃はサッカーをしていたのでよくわかりますが、足で思い通りにボールを操ることは、もはや達人技ともいえる気がいたします。

転がってきたボールを足で受け止め、それをまっすぐ蹴り返す。これができなければサッカーにはならないのです。

どのようにボールをキャッチして、どのように持って、どのように腕を振り上げて、どのようにして投げるのかということを、いちいち考えていると、野球をするどころではありません。

あるいは、どのようにしてボールを足で受け取り、どのようにしてボールを動かし、どのようにして蹴るのか、いちいち考えていてはサッカーになりません。

選手たちは、このような基礎的な動作を確実にできるように、努力に努力を積み重ねていることを、つくづく感じるのであります。

仏教を修行する人は「三学」という3つの基礎的な修行を修めなければいけません。

三学とは「戒学」「定学」「慧学」のことをいいます。

戒学は、いわゆる戒律のことであります。

戒律には、とにかくたくさんの内容がありますが、大乗仏教では総じて止悪、修善、利生の3つに集約されます。

止悪は悪いことをやめること、修善はいいことをすること、利生は人のためになることをすることです。

仏道修行をする人は、まず以てこの戒学を完璧に行わなければいけません。

定学が、禅定のことです。

坐禅や瞑想などをして、散乱した心を落ち着かせることをいいます。

慧学は、戒学と慧学に基づいて智慧を獲得することです。

智慧とは、ものごとを正しく見る能力のことです。

これら三学を修めることによって、修行者は悟りを開くことができるのであります。

逆からみていくならば、悟りを開くためには智慧が必要であり、智慧を身につけるためには禅定という落ち着いた心が必要であり、落ち着いた心も保つためには戒の実践が必要なのであります。

戒とは、語源をたどれば「習慣」「習慣づける」という意味をもっています。

悪いことをやめ、いいことをして、人のためになることをするという行いを、習慣づけることが戒の実践なのであります。

私たちが迷い苦しむ原因は、考える所にあります。

たとえば、いいことをしたら「自分はいいことをしたんだ」といううぬぼれた心が起こります。

相手が言うことを聞かなければ「あなたのためを思ってやったのに」と怒りがわいてきます。

悪いことをすれば当然苦しみとなって自分に返ってきます。

習慣づけるということは、何も考えずに行動できるということです。

いいことをしても、自分にとってごくあたりまえのことをしているにすぎないので、うぬぼれた心が起ることもないし、相手が言うことを聞かなくても怒りがわくことはありません。

考えることなく行動することができるので、禅定という落ち着いた心を造っていくことができるのであります。

スポーツを見ていると、これと同じことが起っていると思うのです。

ボールをキャッチして投げる、あるいは足で受け取って蹴り返す。

そんな達人技の様なことを、何年もかけて毎日毎日練習し、積み上げていった結果に今の選手があるのです。

そしてそのような基礎的な行為を、考えることなく当たり前のようにできるので、そのあとも落ち着いて判断し、スムーズなプレーにつなげていくことができるのであります。

「戒」といってしまうと、とても難しいもののように聞こえるかもしれません。

しかし、私たちの理想的な生き方は習慣から始まるのです。

よい生活習慣が、よい生き方を作り上げていく第一歩なのであります。

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