「人は見た目じゃない」という言葉の通り、お釈迦様も内面、すなわち「心」を磨くことの大切さを説かれています。しかし、現実として私たちは見た目に影響されてしまいがちです。
そのことを考えさせられるような、とんちで知られる一休さんの逸話が残されています。
ある日、一休さんのもとへ高井戸家の使いの者が訪れ、翌日の法事を依頼しました。一休さんは快く引き受けます。
ところが、使いの者が帰った夕暮れ時、ボロボロで薄汚れた服をまとったみすぼらしい男が高井戸家の門前に現れ、「どうぞ、お恵みを」と物乞いを始めました。
門前にいた使用人は「おまえにやる物など何もない!帰れ!」と追い返そうとしますが、男はなかなか立ち去りません。騒ぎを聞きつけた高井戸家の主人が門前へ出てくると、「おい!早くこいつを追い返せ!無理矢理にでも放り出してしまえ!」と命じ、使用人は男を蹴り倒し、往来へ追い出して固く門を閉ざしました。
さて次の日、一休さんは約束の時間に、きらびやかな金襴の袈裟を身につけて高井戸家へやってきました。主人をはじめ大勢の人が心待ちにして出迎え、「さあ、どうぞ中へお入りください」と案内します。
しかし、一休さんは一歩も動きません。「どうされましたか、どうぞ中へ」と主人が声をかけると、一休さんは言いました。
「わしはここで結構じゃ。ここが身分相応なのじゃ」
そして敷いてあったむしろの上に座り込み、動かなくなってしまいます。いらだちを隠せない主人が訳を尋ねると、一休さんは言いました。
「昨日、みすぼらしい格好をした男がやってきたじゃろう。あれはわしじゃ。昨日は散々拒絶され、蹴り飛ばされた。ところが今日はどうじゃ。なんとも手厚いおもてなし。この違いは一体なんじゃ?わしの着ている袈裟が光るからじゃないのか?」
これを聞いた主人はじめ人々は青ざめます。将軍や大名からも尊敬される名高い僧侶に、ひどい無礼を働いてしまったことに気づいたのです。
一休さんは袈裟を脱ぐと、にっこり笑って言いました。
「法事ならこの袈裟に頼むがいい」
そして、そのまま帰って行ってしまいました。
この一休さんの話は、単なる昔話やとんち話として人ごとで捉えてはならない教訓を含んでいます。
実は、これと似たような出来事が海外のあるレストランでも起こっています。
ある日、高級レストランにみすぼらしい容姿のホームレスの男性がやってきて、「何日も食事をとっていないので、食べるものを分けてほしい」と頼みました。しかし従業員は、「ここは高級レストランだ。おまえみたいなやつが来る所じゃない」と追い返し、男性は何も食べられずに店を去ることになりました。
また別の日、別の高級レストランに、同様にみすぼらしい格好をしたホームレスの男性がやってきて、食べるものを分けてほしいと頼みました。するとそちらの従業員は「少々お待ちください」と言って厨房へ向かい、しばらくして戻ってくると、「お席の用意ができましたのでどうぞこちらへ」と食事を用意してくれたのです。
驚いた男性が「こんなお料理、いただいてもよろしいのですか?」と尋ねると、従業員は「実は私も昔、大変な目に遭ってお金がなくてホームレスをしていた時期がありました。困ったときはお互い様です」と答えました。それを聞いた男性は涙を流したといいます。
この話には続きがあります。実はこのホームレスの男性は、訪れた全てのお店のオーナーだったのです。
オーナーは、自分の経営する店舗の従業員が、他者に対してどのような思いやりや態度を示すかを調査するために、変装していたのでした。後にこの話が広まり、食事を提供した店舗は大きく発展していったといわれています。
仏教では「正見(しょうけん)」といって、物事を正しく見ることが常に教えられています。人を外見だけで判断することなく、相手に対して今自分が何をすべきか、正しく見極める必要があります。
しかし、「正しい」というのはとても難しいことです。私たちは、人を見た目によらず、その人そのものを正しく見ることができず、つい見た目で判断してしまっているのが現実です。
だからこそ、「自分は人を見た目で判断してしまいがちだ」ということを深く理解することが大切ではないでしょうか。それこそが、自分にとっての正しい見方につながるのかもしれません。
「正しく見る」べきなのは、相手ばかりでなく、自分の心もです。人を見た目だけで「こわそう」「やさしそう」などと判断してしまった時、「今、自分は、人を見た目で判断してしまった」という自分の心の動きに気づくこと。その気づきがあるだけで、他人に対する見方は大きく変わっていくでしょう。
供養なら、和歌山かんどり本山総持寺へ
自分の心を見つめることは、やがて私たちをしあわせな生き方へと導いてくれます。煩悩に振り回されず、清らかな心で生きていくためにも、他者や亡き人を思い、真心を尽くして行う「供養」を大切にしいます。
「供養」とは、このいただいた命への感謝であり、ご先祖様や故人様への報恩の心を形にする行いです。
和歌山市に位置するかんどり本山総持寺は、「いつでもお参りができるお寺」として、心の通う供養を大切にしています。仏さまやご先祖さま、故人を偲ぶ場所は、いつでも気軽に訪れられる場所であってほしい。そんな願いを形にしたのが当山です。
特に近年ニーズが高まるお納骨や永代供養についても、安心して任せていただけます。永代にわたる供養と管理を通じて、ご遺族様の負担を軽減し、「近いからいつでも会いに行ける」という安心感を提供します。
ご供養は、命をいただいて今を生きていることに感謝をし、自分自身の心も清める大切な行いです。しあわせな未来を生きていくために、ご供養は、歴史と安らぎに満ちたかんどり本山総持寺へ、ぜひご相談ください。