人と人との出会い

人と人との出会い

6月9日付の日経新聞のコラム、春秋を紹介します。

よく行くコンビニがセルフレジに変わった。顔なじみの店員さんとは、たわいない言葉を交わす程度だったが、一抹の寂しさを感じた。たまにしか行かないカレー屋ではマニュアルなのだろう、「○○のポイントカードはお持ちですか」が会計の際の挨拶代わりである。
こういうセリフこそ、機械の自動応答ですむような気がする。人手不足への対応は待ったなし、やむをえない。今に始まった話でもない。それでも人と人とのコミュニケーションが希薄になる様をみると、割り切れない思いが残る。他人との「非接触」を推奨するコロナ禍を経てそんな場面がさらに増えたようにも感じる。
ベビーカーと共に電車に乗り込んだお母さんが、乗客に押されて申し訳なさそうに肩をすくめている。空気を和ませようと赤ちゃんに顔を近づけてあやそうとしたら、険しい表情で子どもを守るようにベビーカーを引かれた。どんな「ばい菌」をうつされるかわからない。見知らぬ人との接近は危険でしかないのだろうか。
そんなこんなで心に疲れが積もった週末、映画の帰りにピッツェリアに立ち寄った。初めての店。若い店員さんの接客が気持ちよい。型通りではなく自分で考え答えているのがわかる。オーダーを追加しようと手を挙げたら、笑顔で手を振り返された。いや、そうじゃなくて。つられてゆるむ頬に、初夏の薫る風を感じた。

日経新聞 春秋(6月9日)

少しほっこりするような話であります。

人と人の関わりの大切さを、改めて感じさせるような思いです。

思えば身近なところにも「セルフ」が増えてきています。

コンビニやスーパーがセルフになってきているのは以前から実感していましたが、最近ではまったくの無人販売所も近所にできました。

お店の中には一人として店員さんがいないのであります。

新しできたお店ということで興味があったので、開店してからほどなくして買い物に立ち寄ってみました。

お店に入ると、いつも通り欲しい商品を手に取り、かごに入れていきます。

そしてレジへと向かうと、店員さんがいないので当然セルフレジでありますので、レジのパネルをタッチして決済の操作をします。

いくつかパネルを押したところで、よくわからないところがあったので、少し戸惑ってしまいました。

こういう時に、店員さんがそばにいればすぐに聞くことができるのに、それができないうちは慣れるまで大変だと感じたのを覚えています。

不思議なものであります。

ほかのお店でもセルフレジが当たり前のようになってきています。

とはいえ、何かあったときのためにと、レジの近くに店員さんが待機をしてくれている場合がほとんどです。

しかし、今回のお店は全くの無人であります。

たった一人でも、助けてくれる人がすぐ近くにいるのといないのでは、安心感が違います。

自分でできるから大丈夫、だけど何かあったときはすぐに駆け付けてくれる。

この安心感が、まるで仏様の存在と重ね合わさるところがあるように思います。

仏教は幸せになるための教えです。

幸せは、昔は「為合わせ」という字を使っていたそうです。

行為と行為が合わさるということです。

人と人との行為が合わさる。

私と誰かの行為が合わさる。

私と神さまの行為が合わさる。

私と仏様の行為が合わさる。

そこに、「しあわせ」が生まれてくるのだと、昔の人は考えていたのです。

それはいいかえれば、人と人との出会いそのものが幸せであるということであります。

ものごとが便利になって、何でも一人でできるようになってきました。

しかしそうすると、自分で何でもできると勘違いを起こして、自分中心に物事を考えて見てしまいます。

自分中心に自分勝手に物事を見て行動していれば、それは当然周りを傷つけ、その報いを受けて自分自身も不幸になっていくに決まっています。

現代はこうした人と人との出会いが薄れてきていて、自分勝手に生きていくことが可能な社会になってきているのではないでしょうか。

「周りに気を遣うから」とよく言いますが、「気を遣う」というのは「思いやり」に他なりません。

「思いやり」とは「慈悲の心」です。

「慈悲の心」とは、「仏の心」であります。

仏の心をもって、「あの人は仏のような人だ」と言われるような人間になっていきたいものであります。

タイトルとURLをコピーしました