法然上人を偲んで

法然上人を偲んで

法然上人を偲んで

1月25日は法然上人の命日であります。

法然上人は、長承二年(1133)美作の国、今の岡山県で生まれました。

勢至菩薩の生まれ変わりだと信じられ、幼少の名は勢至丸といいました。

武士の家に生まれましたので、幼いころから武芸に励み、特に弓矢の腕は一流であったといわれております。

9歳の時に、父である時国は、明石源内武者定明の夜襲にあい、その時におった傷がもとで亡くなりました。

亡くなる直前、息子勢至丸に対して最後の言葉を残されます。

「敵を怨んではいけない。怨みはまた怨みを生み、いつまでも尽きることはない。

それよりも出家をして、わが菩提を弔い、すべての人が平等に救われる道を求めてほしい」

この父の遺言に従い、勢至丸は出家をしたのであります。

近くの菩提寺というお寺に預けられて学問にはげみますが、すさまじい能力と向上心を見せ、師である勧覚得業の勧めで比叡山へと修行に上ります。

そこで叡空上人に師事し、剃髪授戒をして法然房源空と名前を授かります。

仏教を学ぶその志はすさまじいものであり、周りからは「智慧の法然房」といわれるくらい学問や修行に打ち込んだといわれています。

さらには、奈良へと旅をしてもろもろの宗派の教えについても勉強をいたします。

ところが、どの教えも自力修行の教えであり、修行の出来る人しか救われないという教えでありました。

どれだけ勉強し、修行をしても、法然上人自身の心の中には愚痴や煩悩がすぐに表れて出てきます。

周りから「智慧の法然房」といわれていましたが、自分では「愚痴の法然房」として、どこまでも愚かな自分であるとみていたのであります。

自分がどれだけ努力しても救われないのに、ましてや在家の人々がこれで救われるはずがないと感じていた法然上人は、一人経蔵にこもってさらに学問に励みます。

そこでは一切経といわれる、何千巻というすべてのお経を五度にもわたって読み返したといわれております。

そして、承安5年(1175)の春のこと。法然上人43歳の時であります。

中国の善導大師が書かれた『観経疏』という書物を見ていた時、その中にあることばに目がとまりました。

一心専念弥陀名号行住坐臥不問時節近遠念々不捨者是名正定之業順彼仏願故

善導大師『観経疏』

一心にもっぱら弥陀の名号を念じ、行住坐臥に時節の近遠を問わず、念々に捨てざるは、これ正定の業と名づく、彼の仏の願に順ずるがゆえに。

お念仏をすることによって、阿弥陀仏の本願に乗じて救われるということです。

ああそうか、お念仏はだれでもできることだ。お念仏によって、すべての人が平等に救われることができるのだということに気がつき、ここに浄土の法門が開かれることになったのであります。

比叡山を降りた法然上人は、西山の広谷の地(今の総本山光明寺があるところ)で、初めてその教えを説き、そして各地へと他力念仏の教えを広めてまわりました。

途中、さまざまな苦難にあいながらも、建暦2年(1212)1月25日、80歳でその生涯をとじ、極楽浄土へと往生されたのであります。

思えば、大変ありがたいことであります。

法然上人の御遺徳により、800年の時を超えて今私たちにお念仏の教えが伝わっているのであります。

受け難き人身を受けて、遇い難き本願に遇いて、発し難き道心を発して、離れ難き輪廻の里を離れて、生まれ難き浄土に往生せんこと、悦びの中の悦びなり

法然上人『一紙子消息』

世界にはたくさんの生きものが存在する中で、さまざまな縁をいただいて人として生を受け、さらに多くの宗教宗派がある中でお念仏の教えとであい、その道をすすみたいと願い、輪廻の苦しみから離れて生まれがたき極楽浄土に阿弥陀仏の力によって生まれさせていただく。

これほどありがたいことはないのです。

まさに、悦びの中の悦びであります。

この悦びをしっかりとかみしめ、お念仏に励む一日にしたいものであります。

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