ずるいと思う自分が誰よりもずるい
「ずるい」という言葉を調べると、「しなければならないことを巧みになまけたり自分の利益を得たりするために、うまく立ち回る性質である。狡猾である。わるがしこい。」と意味が出てきます。
ところが、場合によっては違う意味でこの言葉を使っていることがあるように思います。
以前、和歌山県海南市にある「黒沢牧場」へ行ったときのことです。
ここでは、放牧されている牛の搾りたてのミルクを使った特性ソフトクリームを食べることができます。
せっかく来たので、ひとつ食べてみようと順番を並んでおりました。
前の人の様子を見ていると、逆三角形のコーンに向かって、機械からソフトクリームが渦巻き状に絞り出されているのがわかります。
甘い香りもほのかに漂い、空腹もあいまって、無意識のうちに自分の番が待ち遠しく感じます。
そしてようやく自分の番。
コーンの上にはソフトクリームがきれいに渦上に積み上げられています。
今すぐにでもかぶりつきたい衝動を抑えて、お金を払うと、空いているスペースへと移動します。
さて、いざ食べようと思って顔を上げると、何気なくお店の様子が目に入りました。
見てみると、ソフトクリームを入れる店員さんが、さっきとは違う人に変わっています。
見るからに不慣れな感じで、おそらく新人さんのようでした。
機械に手をやり、コーンを添えて、いざソフトクリームを絞りだそうとしたとき、思った以上に勢いよく出てきたのか、少し慌てた様子です。
そして出来上がったソフトクリームは、私が受け取ったものと比べると見るからに形がいびつであります。
しかし、どこからどう見ても量があっちのほうが多いのであります。
私のものが4段重ねで、あっちが5段重ねのⅬサイズくらいの違いがあるように見えました。
味が同じなら、形はともかく量が多いほうがお得であるに決まっています。
思わず私は「ずるい!」と思ってしまったのでありました。
不思議なものです。
自分が損をしているわけではありません。
周りの人たちは、私と同じサイズのソフトクリームを食べています。
それなのに、なぜか自分だけ損をしたような気分であります。
さて、このときの「ずるい」という言葉の意味を考えると、「わるがしこい」という意味ではなく、また別の意味を持っているように思います。
振り返ってみて、そのときの私の心には、妬みや嫉みがありました。
きっと「うらやましい」に近い感情のときにも、「ずるい」というのかもしれません。
思えば、ネットニュースかなにかで「高齢者はずるい」という若者の意見を見たことがあります。
高度経済成長で景気がよく、交際費に大盤振る舞いし、近くでもタクシーを使うような時代を過ごし、作った借金は若者に押し付けて年金で優雅に暮らしていると。
若者からはそのように見えるようです。
反対に「今の若者はずるい」という意見も見ました。
昔と比べればモノにあふれ、欲しいものはすぐに手に入るし、食べるもので困ることはほとんどない、家族よりも個人を重視して自由気ままに生活していると。
高齢者からはそのように見えるようです。
もちろんこれがすべてではありません。こんな意見もあるということです。
この場合の「ずるい」も、「うらやましい」といった、妬み嫉みの感情を表しているのではないでしょうか。
嫉みは、自分自身を苦しめる煩悩です。
そして、気をつけているつもりでも、ふとした時に自分の中にこのような心が起こるのであります。
改めて罪悪生死の凡夫であるという事実を痛感させられます。
極楽浄土に生まれたいと願う人が起こすべき心に「深心」というものがあります。
善導大師はこれを深く信じる心とし、これを二つに分けて
「一には決定して、深く信ず。自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あること無しと。二には決定して深く信ず。かの阿弥陀仏、四十八願をもって、衆生を摂受したまう。疑いなく慮い無く、かの願力に乗じて、定んで往生を得と」
と説いています。
私たちは、自分の力では煩悩を打ち消して輪廻の世界から抜け出し、悟りに至ることができないこと。そしてそんな私であっても阿弥陀仏は必ず救い取ってくださるということ。
この二つをよく理解し、深く信じなさいというのであります。
ソフトクリームひとつで、ずるいと言って簡単に嫉みの心を起こし、煩悩が湧き起こる私です。
ソフトクリームひとつでずるいと思う自分が、誰よりもずるいようにも思います。
それでも救い取ってくださる阿弥陀仏を信じ、またイチから自分の行動を気をつけ、念仏に励む日々であります。