井戸に落ちた猫
ひと昔前のお話を紹介いたします。
場所は京都の三条大橋から東に入ったところにある、とあるお寺です。
このお寺の庭には、水の涸れた井戸がありました。
あるとき、一人の僧侶がそのお寺を訪ねると、ギャアギャアと何かが鳴く声が聞こえてきました。
あたりを見回しても、何か生き物がいるようには見えない。
その声をよく聞いてみると、どうもその空井戸の中から聞こえてくるように思います。
井戸のそばまで行って上から覗いてみると、思った通り、中で子猫がギャアギャアと鳴いていたのであります。
どうやらそこへ落ち込んだらしい。
これはどうにか助けて上げなければいけないと思ったその僧侶は、お寺の住職に声をかけ、どうすれば助けられるかと相談いたします。
自分たちが井戸の中に降りていくわけにはいかない、何か方法はないかと考えた末、隣の家に梯子があったことを思いだしました。
事情を話して梯子を借りてくると、井戸の中へとかけてやります。
これで上がってこれるだろうか、けがはしていないだろうか。
ふたりの心配をよそに、梯子をかけた途端に猫は一気に駆け上がり、井戸を飛び出してどこかへ走って行ってしまいました。
これを見て、ふたりは思わずああよかった、助かったと叫んだのであります。
この話は、関本諦承上人が実際に経験されたお話であります。
関本上人は、西山浄土宗の総本山である光明寺の第69世法主を勤められた方で、当寺、総持寺の住職も勤められております。
浄土宗西山派の発展に大いに貢献し、多くの法話を残されております。
さて、先の猫の話でありますが、これについて関本上人はこのように残されています。
「ところで余の喜び叫んだ意味は聊か他にあった。そは実は如来様の他力の微妙なる力を喜んで叫んだのじゃ。皆さん考えてごらん、我ら凡夫が無明の闇黒裡(やみり)にあること、ちょうど井戸の底の猫と同様じゃ。そは私は猫じゃ。」
と、猫と自分とを重ね合わせて見ているのであります。
無明の闇を生きる私たちは、まるで井戸の中に落ちて這い上がることができない猫であるとしているのです。
そして、これに続いて
「なんぼあせっても、もがいても、到底自力では出ることは叶わん。つまり泣き死にするより他はない。然るに如来様は私の泣き声をきこしめされて痛切(しん)にあわれと思し召され、やがてお慈悲の梯子を掛け渡し、さあ上がってこいと御招喚(および)下されているのであるが、今正しくこの招喚(よびごえ)が幽かに聞こえた、そして他力の梯子に取りついた、ああ他力なるかな他力なるかなと、それを住僧と共に語って喜びましたのであります。」
と語っておられます。
自分の力ではとうていどうすることもできない私でありますが、そんな私の声を聞いて仏さまは、お慈悲の梯子を掛け渡し、登ってこいと呼んでくださっているのであります。
そして、その声が幽かに聞こえたというのであります。
とても不思議なことであります。
仏さまが私を呼ぶ声を直接に聞くことができれば、どんなにありがたいことでしょうか。
上人はこの体験を通して、仏のお慈悲の力を再び確認したのでありましょう。
私たちが往生することができるのは、ひとえに阿弥陀仏のお慈悲に極まるのであります。
流祖西山上人は、
「本願は慈悲を種とす。乃至仏は慈悲の種を以て成仏す。故に無量寿なり。衆生は慈悲の因(たね)に依って往生を得。故に寿命長遠なり」
として、阿弥陀仏が法蔵菩薩であったときに、四十八願を立てて六度万行を修行されたのは、悩み苦しむ衆生を救いたいという慈悲の心からであり、この仏の慈悲の心によって衆生は往生することが叶うのであります。
これについて関本上人は
「往生のたねは大悲のひとつにてはなさくなり弥陀の浄土に」
と詠んでおられます。
種から芽を出し、花が咲くように、阿弥陀仏の極楽浄土も、衆生の往生も、すべては仏のお慈悲の心から生み出され、叶うことなのであります。
私を救い出してくれるお慈悲の梯子が、もうすでにかけられていることを、うれしく思うのであります。