日常の生活を悦びに変える
劇作家・演出家として活躍をされている平田オリザさんという方がおられます。
平田さんは「現代口語演劇」というものを提唱し、日本の現代演劇に大きな影響を与えたといわれています。
これまでの演劇は、大恋愛や殺人事件など、大きな事件を好んで取り上げて演じられてきました。
しかし、人間は日々の中で、そのような大恋愛や殺人事件ばかり繰り返しているわけではありません。
むしろ大半は、そのような大事件とは全く無縁で静かな時間を過ごしています。
平田さんは、そのような静かな時間を好んで演劇の題材に取り上げているそうです。
1982年に結成された劇団「青年団」は、平田さんが提唱した「現代口語演劇理論」を通じて、新しい演劇様式を追求してきました。
そのまったく新しい演劇様式は、演劇界以外からも強い関心を集めてきたといわれています。
そんな劇団「青年団」のホームページには、このようなことが書かれていました。
人間が存在することは、本来が驚きに満ちたことであり、その存在自体が劇的です。人間の生活はそれ自体が本来、楽しく、優美で、滑稽で、間抜けで、複雑で豊かな様相を内包しています。私たちは、その複雑な要素を抽象化しながら舞台上に再構成し、その静かな生の時間を、直接的に舞台にのせようとする試みをつづけています。
劇団「青年団」HPより
なるほどと、関心をいたしました。
人間が存在することは、それ自体が驚くことであり、劇的なのであります。
当たり前のように起きて、当たり前のように食事をし、当たり前のように仕事をし、あるいは学校へ行き、当たり前のように帰ってきて、当たり前のように寝る。
そんな一日の中でも、よく考えればいろいろな出来事があるはずなのであります。
昨日とは違う人と今日は出会い、また明日は違う人と出会うでしょう。
たとえ同じ人としか会っていなくても、その会話の内容は全く違うものであるはずです。
昨日は失敗をしてしまって、悔しく、悲しい思いをしていても、今日は物事がうまく進んで悦びのある一日を過ごしたかもしれません。
日常の生活自体が、楽しく、優美で、滑稽で、間抜けで、複雑で豊かなのであります。
平田さんの演劇は、そうしたありふれた日常の悦びを教えてくれるのかもしれません。
先日、日経新聞に掲載されていた行動学者である細馬宏通さんのエッセーに、劇団「青年団」のことが紹介されていました。
細馬さんが何年か前に見た劇団「青年団」の稽古の様子がとりあげられています。
ごくごく短い場面のやりとりを何度も繰り返す稽古が続き、一時間以上が経ったところで休憩になったのですが、その休憩中に俳優さんたちがしていたことが奇妙だったというのであります。
それそれぞれが大道具に向かって自分の体をぶつけ始めました。
他にも、ソファにゆっくり座ったり、あるいはドスンと座ったり、身を投げ出して横たわったり。
階段をゆっくりと上ったり、駆け上がったり、はたと止まって振り向いたり。
それらの行動は、劇の中で演じる特定の身振りをやってみるというのではなく、作られた空間の中で、さまざまな姿勢や動きを試しているというのです。
これは、休憩のたびにくりかえされるのですが、おもしろいことに俳優たちの演技が回をおうごとにセットに馴染んできます。
そして、ソファに寄りかかる姿勢や階段をせわしなく駆け上がる動きによって、大道具がいかにも住み慣れた家であるかのように感じられるというのであります。
そして最後に、このように締めくくられていました。
新しい服を試着するのを、フィッティングというけれど、これは観教に対するフィッティングのようなものかもしれない。自分に合う環境が見つかるまで、環境を次々と取り替えるというのではない。自分に合った身体の使い方が見つかるまで、何度でも環境に身体を投げ出し、自分と環境との可能性を探るのだ。
日経新聞
私たちは、何かあったときには、すぐに環境のせいにしてしまいがちであります。
生まれた環境が悪いからとか、育った環境が違うからだとか、すぐにまわりのせいにしてしまいます。
しかし、問題の本質は自分の心の中にあるのです。
今自分が置かれている環境に対して、どのように感じているか、何を感じているか、その受け取り方の違いによって、悦びにも苦しみにもなるのであります。
ひいては、私たちはこの苦しみの満ちあふれた娑婆の世界を生きていかなければいけません。
この日常が悦びに変わるまで、何度も何度も試行錯誤を繰り返し、努力していくことが大切なのかもしれません。