「見て見ぬふり」スマホと空き缶

「見て見ぬふり」スマホと空き缶:写真は総持寺の境内中庭

「見て見ぬふり」スマホと空き缶

ある高校生のお話です。

その彼は毎日一時間ほどかけて学校に通っていました。

自宅から歩いて駅に向かうと、毎日時間通りにやってくる特急電車に乗ります。

そして4つか5つ目の駅でいったん降りて、今度は各駅停車の電車に乗り換えます。

駅を降りると、今度は自転車に乗り換えます。

降りた駅から10分ほど自転車で行ったところに、学校がありました。

その学校は中心市街から少し外れた場所にありました。

最寄りの駅で降りる人は、ほとんどがその高校の学生だったそうです。

こうして学校に通っていた彼は、サッカー部に所属していたので、授業が終わると遅くまで部活動に励みました。

そんなある日のことであります。

その日は部活動のミーティングが少し長引き、いつもより遅い時間に電車に乗ることになりました。

学校から自転車で駅までもどり、学校の最寄りの駅から普通電車に乗って何駅か行って、特急電車に乗り換えて帰ります。

この普通電車に乗る人はもともと少なく、しかもいつもより遅い時間になったということもあって、そのときは、同じ車両に乗っている人は彼の他にあと何人かだけしかいなかったそうです。

ふと、空いている席に目をやると、座席の上にスマホが落ちているのが見えました。

その周りには誰も座っていません。

しばらく様子を見ていましたが、誰かが戻ってくるような気配もありません。

「これはきっと、誰かの落とし物だろう。」

そう思った彼は、自分が駅を降りるときにそのスマホを一緒に持って降りて、駅員さんに届けたのでありました。

幸いにもその持ち主がすぐにわかったようで、後日お礼の連絡がありました。

彼は素直に、持ち主が見つかってよかったと思ったのでありました。

それからまた別の日のことであります。

その日も部活動のサッカーが長引いたせいで、帰るのがいつもより遅くなりました。

そのときも、学校の最寄り駅から乗る各駅停車の電車には、彼を含めて数人しか乗っていません。

電車が動き出すと、車内で何かが転がるような音がします。

音の方に目をやると、空き缶がコロコロと転がっていました。

電車が右に左にと揺れるたびに、空き缶も右に左にと転がります。

彼はそれを見ながら「誰かが捨て忘れたのかな」と思いました。

コロコロ転がる空き缶を、ボーッと眺めながら電車に揺られていると、自分が降りる駅に到着しました。

さあ、降りようかと席を立ったとき、目の前をスーツを着た男性が通り過ぎました。

男性は、ずっと転がっていた空き缶を拾うと、扉が開いたと同時に電車を降りて、走ってゴミ箱に向かって行きました。

そして、ゴミ箱に空き缶を放り込むと、すぐに走って戻って電車に乗り込んだのであります。

「空き缶は、あの男性が飲んだあとの物だったのだろうか、いや、男性は自分が電車に乗ったあとに乗ってきたから、それは違う。空き缶はあきらかに、別の見知らぬ人が放置した物だ。」

彼はそんなことを思いながら、一連の出来事を見ていました。

駅を降りて電車を乗り換え、自宅に向かう特急電車の中で、ふと思ったことがあります。

そういえば、この前は落ちていたスマホを拾って、駅員さんに届けた。けれど今回は、落ちていた空き缶を拾うことなく、むしろ見て見ぬふりをした。

同じ「落とし物」であるにもかかわらず、一方は拾い、一方は見て見ぬふり。

罪悪感があるわけではないが、どこかモヤモヤとする出来事であったといいました。

この話を聞いて、私ならどうしただろうかと、重ね合わせて考えてみます。

忘れられたスマホを届けるかどうか。

落ちていた空き缶を拾うかどうか。

恥ずかしながら、私ならどちらの場合も見て見ぬふりを決め込む場合もあるだろうと思いました。

たとえスマホだけでも、拾って届けるというのは、この高校生は立派なものであります。

どちらにせよ、人間というものは面白いものであります。

同じ落とし物でも、それに対する向き合い方が変わるのです。

結局、私たちは自分の都合のいいようにものごとを見ているのであります。

「正見」という言葉がありますが、これはものごとを正しく見る力のことであります。

私たちにはこの力が無いので、自分の都合でものごとを見て、自分で悩み、苦しんでいるのであります。

同じ落とし物でも、スマホと空き缶を区別して、自分の都合のいいようにきれいとか汚いとか判断して、拾うとか拾わないとかいう、違う行動が表れるのです。

ある高校生の、電車の出来事から、深く考えさせられるものがあるのでありました。

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