「たった3,000円」で
とあるニュースで、知人と話が盛り上がりました。
ニュースによると、2月11日に事件が起こりました。
病院に勤めている39歳の男性が、休日に市内のセルフ式のガソリンスタンドに立ち寄りました。
そこで給油をしようとしたところ、給油機に現金3,000円がはさまっていました。
どうやら、前の人が給油し終わった後、おつりを取り忘れて行ってしまったようで、それがそのまま残されていたという事です。
そして男性は、その現金3,000円を盗って帰ってしまったのであります。
その後、おつりを取り忘れた人が戻ってきたときにはすでに無く、警察に届け出てこの事が発覚したというのでした。
男性は「ラッキーだと思って、やってしまった」と説明したといい、被害者に対しては全額弁償しているとのことです。
またこの事件を機に男性は、勤めていた病院を1ヶ月停職の懲戒処分になったそうであります。
この話を知人としながら、ふたつの部分で大いに盛り上がりました。
ひとつは「たった3,000円」で大きなニュースになったということ。
「たった3,000円」というのは語弊があるでしょう。
でも、3,000円くらいなら警察に届けなくてもいいだろうという気持ちもあるのではないでしょうか。
知人も私も、その現場に居合わせたなら、きっと同じことをしていただろうと思っていたのです。
思えば、自動販売機に小銭が残っていれば「ラッキー」といってポケットに入れたり、レジでお会計がほんのちょっと合わなくても何も言わずに財布に入れたり、そんなことは過去に何度もあったように思います。
「たった3,000円」で大きなニュースになるなんて、私も知人も、ましてや当人も思ってやしなかったでありましょう。
もうひとつは、いつどこでだれに見られているか分からないということであります。
被害者が現場に戻ってきたときには、もうすでに現金は無く、その後警察の届け出をして、防犯カメラの映像を確認したところから、男性が分かったという事であります。
犯罪から市民を守るために、私たちは「防犯カメラ」で見守られています。
ところがこれは言い換えれば、私たちを常に見ている「監視カメラ」でもあります。
現在、日本全国で設置されている監視カメラの数は、500万台を超えているといわれています。
これほど多くのカメラに見られながら私たちは生活をしているわけであります。
さらには、最近ではスマホで簡単に誰でもすぐに動画を撮ることができるようになりました。
SNSを見ていると、迷惑行為をした人を動画で撮影しアップするという、いわゆる「晒し」が当たり前になっています。
まったく見ず知らずの人に動画を撮られ、知らないうちにインターネットにアップロードされているというのが、今の社会で当たり前となっているのであります。
知人はこのニュースを見て、すぐさま娘に「あんたも気をつけなさい!」と連絡したそうですが、気をつけるべきは自分自身だと笑ったのであります。
「たった3,000円」で、人生を棒にふるってしまう人がいることを見て、つくづく悪いことはできないと話し合ったのでありました。
お釈迦様やその弟子たちは、集団で生活をしていました。
その生活スタイルは今でも引き継がれ、タイやスリランカなどの東南アジアの仏教修行者たちは、集団で生活をして規律を守って過ごしています。
日本でも、少し形は変わりましたが、住職となる前、修行時代は、仲間とともに同じ釜の飯を食べる集団での生活をしています。
集団で生活することによって、お互いを監視する役割があるといいます。
もし間違ったことがすれば指摘をされ、規律を乱さないようにお互いで律しながら生活をしているのであります。
そして、もし規律に違反することがあるならば、たとえ些細なことでも悔い改めなければいけません。
たった小さな虫の一匹でも殺そうものなら、「私は虫を殺しました」と懺悔しなければいけないのであります。
「たったこれくらいいいだろう」といういい加減な気持ちが心を汚し、汚れた心はどんどん大きくなっていきます。
「たった3,000円」という気持ちは、簡単に「たった1万円」「たった100万円」と大きくなっていき、悪いことだと思うこともなく罪を作り続けていってしまうのが、私たち人間であります。
そうならないために、「見られている」という意識の元で行動することによって、悪をやめて心を清らかにしていくのであります。
昔は「お天道様が見ている」と言いました。
今では「監視カメラが見ている」時代であります。
些細なことも悪いことは悪いと自覚し、自分を律していかなければいけないと、改めて感じたのであります。