「いかにいわんや。下凡の初発心の人ハ利生に於いて障り多し」

画像:アートジェンダHP

「いかにいわんや。下凡の初発心の人は利生に於いて障り多し」

仏教では「他人のために」行動することを、よく求められています。

自分の利益になることだけをするのではなく、他人の利益になることをしなさい。

それは、日本で広まった大乗仏教では特に強調して言われることではないでしょうか。

他人の幸せを願って、他人のために一生懸命に行動し、あるいは修行をすること、これこそが本当の仏教が求めている悟りへの道であるというのです。

しかし、興正菩薩の名で知られる鎌倉時代の僧侶、叡尊は、その考え方に警鐘を鳴らしています。

「いかにいわんや。下凡の初発心の人は利生に於いて障り多し」

利生とは、他人の幸せを願って行動することをいいます。

しかし、悟りを求めて仏道に帰入した人の、最初の頃の行動は、かえって障害になることが多いので気をつけなさいというのであります。

逆にいえば、完全な菩薩の領域に達してようやく、他人のために行動しても障りはないということです。

なるほど、よく考えてみると、「あなたのためにしてあげたのに」「これだけ力を尽してあげたのに」「あなたのためを思っていってるのだ」と思ったとき、それはもはや相手のためになっていないのではないかと思うのです。

それこそ、「我ヲ捨テ偏ニ他ノ為ニシテ私ヲ離ル」ことができて、はじめて本当の利生の実現になるのではないでしょうか。

そもそも、利生をすることは、自分の悟りのための修行であります。

利生の行動がうまくいったときには、相手が理解してくれたおかげだと喜び、もし自分の善意を相手が受け入れてくれなかったときは、自分の未熟さが原因であると反省する。

そのように、つねに自分の行動を見直すことが大切です。

利生「他人のために」という行動を、よくよく考えていかなければいけません。

参考