『迷うことなくうたがうことなくただひたすら念仏すべし』
宗祖法然上人の御法語『一枚起請文」の中には、
「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」
とあります。
南無阿弥陀仏と称えるばかりが念仏ではありません。
阿弥陀仏は必ず私を救うのだと信じ、信仰する心そのものが念仏なのであります。
ではなぜ称えよと言うのでしょうか。
それは、阿弥陀仏を信仰する心を行動に起したとき、いつでも、だれでも、どこでも、簡単にできることが、称えることなのでそれを勧めたのであります。
阿弥陀仏は十劫の昔に、すべての人を救うことができなければ仏にはならないと誓い、その願いが成就して仏と成りました。
それはいいかえれば、すべての人は阿弥陀仏によって必ず救われるということであります。
自分の力ではなく、阿弥陀仏の力で極楽浄土に往生することができるということを信じ、この身このまま阿弥陀仏におまかせすることを、念仏というのであります。
私たちの苦しみの中で、いちばん大きな苦しみは何かといえば、「死」であります。
人はいつか死ななければいけないし、死んで別れなければいけません。
この苦しみは、自分の力でどうすることもできません。
自分の力でどうすることもできないので、阿弥陀仏にまかせるしか方法はないのであります。
ある知人は、以前は「自分はいつ死んでもいい。今死んでも後悔しないし、死ぬのは恐くない」と言っていました。
ところが母親が死んだことをきっかけに、言うことが変わってきました。
「本当にあの世はあるのだろうか。自分も極楽に行くのだろうか。できれば死にたくない」
いざ身近に死を感じると、考え方が変わってくるのです。
しかし、いくら死にたくないと言っても、死ななければいけないのが人であります。
私たちはただ、阿弥陀仏が「すべての人を救う」という言葉を信じ、阿弥陀仏にまかせるしかできないのです。
どうすることもできないことは、どうすることもできないものだと受け止め、阿弥陀仏にまかせてしまう。
ここに、死に対する不安が除かれていくのであります。
法然上人の弟子の西山上人は、
「叶ふことをば叶ふと知り、叶はざることをば叶はずと知るを、真実と云ふなり」
といいました。
自分の力で極楽浄土に往生することは叶わないのにもかかわらず、叶えようとするところに苦しみが生じるのです。
叶わないものは叶わないと知るところに、安らかな救いの心が生まれてくるのです。