なにごとのおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍された僧侶に、西行法師がいます。
西行法師は歌人としても活躍し、多くの和歌も残されました。
のちに有名となった江戸時代の歌人である松尾芭蕉は、西行法師に憧れ、大きな影響を受けたといわれています。
西行法師が伊勢神宮へ参拝したときに読んだという歌があります。
「なにごとのおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」
どなたがいらっしゃるかはわかりませんが、ただありがたくて涙がこぼれてくるのだ。
日本人の宗教観を歌ったものだとも伝えられています。
昔から日本人は何に対しても手を合わせて敬う心をもって生活してきました。
山には山の神がおり、海には海の神がおり、畏敬の念をもって接し、ごく日常の当たり前のこととして受け入れてきました。
それは近代でも変わることはありません。
お正月には神社へ初詣に行き、年末には除夜の鐘をつきにお寺にお参りします。
結婚式は教会で行い、お葬式は仏式で行います。
クリスマスやハロウィンなども、単なるイベントとして扱われているとはいえ、もとをたどれば外国の宗教行事です。
様々な宗教が混じり合い、忌避することなく受け入れてられました。
ここに、日本人の寛容さがみてとれます。
宗教はそのまま人の生活にも影響されるものです。
もしひとつの神さましか信じることができない宗教観なら、その神を信じない人は社会から排除されてしまいます。
神さまにも仏さまにも、さらには外国の神さまにも手を合わすことができる日本人は、同時にすべての人と平等に接することができる寛容な心を持っているといえるのではないでしょうか。
西行法師は、そんな日本人の心に感動したのではないかと思うのです。
「なにごとのおわしますかは知らねども」
多くの神さまに手を合わせる私たちは、それがあまりにも普通になってしまっているがために、何に対して手を合わせているか分からなくなってしまっている部分がある気がします。
伊勢神宮にお参りしても、そこに何の神さまがお祀りされているか知っている人は多くないのではないでしょうか。
しかし、それでも何かありがたいと感じ、心安らぎ、涙を流すことができるのです。
私を生かそうとするはたらきは、私の力を越えたところにあり、私の想像を超えた存在であり、到底わたしの力では知ることもできない。
西行法師は、そんな何かわからないような大きな力によって生かされていることを感じ、ふとありがたいと涙がこぼれたのでしょう。
知ることも、見ることも、言葉にすることもできないもの。
そういうものこそ大切にしていきたいものです。