思い込み
時代のイメージにはどのようなものをもっているでしょうか?
私たち人間は、ものごとを自分の都合のいいようにしか見ていません。
それは、意図してそのように見ている場合もあれば、意図せずして見ている場合もあるでしょう。
2月27日の日経新聞のコラム「春秋」に、面白い記事が掲載されていました。
抜粋して紹介します。
「時代のイメージとは不思議なものである。
たとえば、1945年8月15日の終戦の日。
すぐ頭に浮かぶのは、正午の玉音放送を聞いて皇居前でこうべを垂れ、土下座をする人々の姿だ。
写真は新聞紙面を飾り、戦後80年を控えた現在まで「記憶」が保たれている。
近年の研究では、そうした資料の一部は8.15以前の撮影だったり、被写体にポーズをつけたりしていた疑いがあるという。
それに、日本人の誰もが玉音放送を聞いて地にぬかずいたわけでもない。
永井荷風は「断腸亭日乗」に終戦を「あたかも好(よ)し」などと書きとめ、その夜は鶏肉とぶどう酒で「休戦の祝宴」を張った。」
これを見て私は驚きました。
当時の人の多くはラジオの前で玉音放送を聞き、ポツダム宣言受諾にショックを受けたと思っていました。
テレビを見ていても、当時の様子といえば皇居やラジオの前で頭を下げる人の姿であります。
ところが、そうではない人もいたのだということに、改めて気づかされたのです。
また、コラムの続きにはこのようにありました。
「バブルの象徴のように伝えられる「ジュリアナ東京」のオープンは91年の5月である。
すでに流れは変わり、しきりにバブル崩壊が報じられていた。
それでもなぜか、記憶には誤って刷り込まれていく。」
これは知りませんでした。
日本が一番景気がよかったとされる時代をイメージするときに使われる「ディスコ」
お立ち台の上で女性が踊っている姿は、容易に思い描かれます。
実はこれが、バブル崩壊が報じられた後だったとは、思いもかけませんでした。
また逆に、安くてうまいという「B級グルメ」が定着するのが、いわゆるバブル期であったということも、初耳でありました。
私たち人間は、バブル期はよかったといってバブル崩壊後のディスコに憧れをいだき、バブル期の出来事でありながら「安くてうまいに時代が変わった」と嘆いているのです。
本当に愚かな生き物であります。
私たちは、見たり聞いたりした出来事を、心の中に記憶として蓄積していきます。
そして思い返すときに、蓄積された記憶からその時の情報を取り出します。
ところが、記憶から情報を取り出す作業をする時に、煩悩の力に影響されて正しくその作業を行うことができません。
つまり、自分勝手に自分の都合のいいように記憶を改ざんしてしまうのです。
私たちは勝手に、「バブル期は景気がよかった、すべての人が余るくらいのお金を持っていた」と勝手に思い込み、その思い込みに見合うように「当時の人はみんなディスコで遊んだ」とイメージを作りだしているのです。
反対に、バブル期でも「安くてうまい」はあたりまえのように食べられていたのに、「バブルが崩壊したから安くてうまいものが求められた」と思い込み、経済が悪化したからB級グルメが流行ったのだと勝手にイメージしているのです。
情報があまりにも多すぎる現代において、正しく物事を受け入れることは特に難しくなってきているように思います。
玉音放送と土下座。
バブルとお立ち台。
わかりやすい図式を求めるが故に、記憶には誤ってすり込まれていき、真実はその陰に隠れがちです。
客観的に物事をみる大切さに、改めて気づかされた思いがいたします。