「たった3,000円」で

「たった3,000円」で

あるときのニュースで、考えさせられる出来事がありました。

病院に勤めている39歳の男性が、休日に市内のセルフ式のガソリンスタンドに立ち寄りました。そこで給油をしようとしたところ、給油機に現金3,000円がはさまっていました。どうやら、前の人が給油し終わった後、おつりを取り忘れて行ってしまったようで、それがそのまま残されていたということです。

そして男性は、その現金3,000円を持ち帰ってしまったのでした。その後、おつりを取り忘れた人が戻ってきたときにはすでに無く、警察に届け出てこの事が発覚しました。男性は「ラッキーだと思って、やってしまった」と説明したといい、被害者に対しては全額弁償しているとのことです。またこの事件を機に男性は、勤めていた病院を1ヶ月停職の懲戒処分になったそうです。

この話を知人としながら、ふたつの部分で大いに盛り上がりました。ひとつは「たった3,000円」で大きなニュースになったということ。「たった3,000円」というのは語弊があるでしょう。でも、3,000円くらいなら警察に届けなくてもいいだろうという気持ちもあるのではないでしょうか。

知人も私も、その現場に居合わせたなら、きっと同じことをしていただろうと思っていたのです。思えば、自動販売機に小銭が残っていれば「ラッキー」といってポケットに入れたり、レジでお会計がほんのちょっと合わなくても何も言わずに財布に入れたり、そんなことは過去に何度もあったように思います。「たった3,000円」で大きなニュースになるなんて、私も知人も、ましてや当人も思ってやしなかったでありましょう。

もうひとつは、いつどこでだれに見られているか分からないということです。被害者が現場に戻ってきたときには、もうすでに現金は無く、その後警察の届け出をして、防犯カメラの映像を確認したところから、男性が分かったという事でした。

犯罪から市民を守るために、私たちは「防犯カメラ」で見守られています。ところがこれは言い換えれば、私たちを常に見ている「監視カメラ」でもあります。現在、日本全国で設置されている監視カメラの数は、500万台を超えているといわれています。これほど多くのカメラに見られながら私たちは生活をしているわけであります。

さらには、最近ではスマートフォンで簡単に誰でもすぐに動画を撮ることができるようになりました。SNSを見ていると、迷惑行為をした人を動画で撮影しアップロードするという、いわゆる「晒し」が当たり前になっています。まったく見ず知らずの人に動画を撮られ、知らないうちにインターネットにアップロードされているというのが、今の社会で当たり前となっているのです。

知人はこのニュースを見て、すぐさま娘に「あんたも気をつけなさい!」と連絡したそうですが、気をつけるべきは自分自身だと笑ったのであります。「たった3,000円」で、人生を棒にふるってしまう人がいることを見て、つくづく悪いことはできないと話し合ったのでありました。

見られている意識が持つ効果は、実は仏教の修行においても古くから重視されてきました。お釈迦様やその弟子たちは、集団で生活をしていました。その生活スタイルは今でも引き継がれ、タイやスリランカなどの東南アジアの仏教修行者たちは、集団で生活をして戒律を守って過ごしています。

日本でも少し形は変わりましたが、修行時代は仲間とともに同じ釜の飯を食べる集団での生活をして過ごします。

集団で生活することによって、お互いを監視する役割があるといいます。もし間違ったことがすれば指摘をされ、秩序を乱さないようにお互いで律しながら生活をしているのであります。

そして、もし戒律に違反することがあるならば、たとえ些細なことでも悔い改めなければいけません。たった小さな虫の一匹でも殺そうものなら、「私は虫を殺しました」と懺悔しなければいけないのであります。

「たったこれくらいいいだろう」といういい加減な気持ちが心を汚し、汚れた心はどんどん大きくなっていきます。「たった3,000円」という気持ちは、簡単に「たった1万円」「たった100万円」と大きくなっていき、悪いことだと思うこともなく罪を作り続けていってしまうのが、私たち人間であります。

そうならないために、「見られている」という意識の元で行動することによって、悪をやめて心を清らかにしていくのであります。見られている意識を持つことの効果は、単に悪事を抑止するだけではありません。それは自分自身を律し、より良い人間へと成長していくための大切な道しるべとなるのです。

昔は「お天道様が見ている」と言いました。今では「監視カメラが見ている」時代であります。些細なことも悪いことは悪いと自覚し、自分を律していかなければいけないと、改めて感じたのであります。

見られている意識を持つことで、私たちは日々の行いを振り返り、正しい道を歩んでいくことができます。それは外からの監視に怯えるためではなく、自分自身の心を清らかに保ち、誇りを持って生きていくための智慧なのであります。

供養なら、和歌山かんどり本山総持寺へ

自分の心を見つめることは、やがて私たちをしあわせな生き方へと導いてくれます。煩悩に振り回されず、清らかな心で生きていくためにも、他者や亡き人を思い、真心を尽くして行う「供養」を大切にしいます。

「供養」とは、このいただいた命への感謝であり、ご先祖様や故人様への報恩の心を形にする行いです。

和歌山市に位置するかんどり本山総持寺は、「いつでもお参りができるお寺」として、心の通う供養を大切にしています。仏さまやご先祖さま、故人を偲ぶ場所は、いつでも気軽に訪れられる場所であってほしい。そんな願いを形にしたのが当山です。

特に近年ニーズが高まるお納骨永代供養についても、安心して任せていただけます。永代にわたる供養と管理を通じて、ご遺族様の負担を軽減し、「近いからいつでも会いに行ける」という安心感を提供します。

ご供養は、命をいただいて今を生きていることに感謝をし、自分自身の心も清める大切な行いです。しあわせな未来を生きていくために、ご供養は、歴史と安らぎに満ちたかんどり本山総持寺へ、ぜひご相談ください。