後悔する人しない人
用事でお寺から外へ出て行こうとしたときのことであります。
お寺の門をくぐって、本堂の前までやって来たご年配の方が、何やらうろうろとされていました。
本堂にお参りをするのかと思えば、そういうわけでもなさそうです。
じゃあ事務所に来るのかと思うと、コチラの方にむいて来るわけでもありません。
まさか賽銭泥棒か。それにしては日中のまっただ中で、こんな時間に犯行に及んでもバレてしまうのは明らかです。
正直、不審者とは関わりを持ちたくはないという一方、お寺の境内に入ってきている人なので何かあってからでは遅い。
どうするべきかと迷っていると、そのご年配の人は私の顔を見るなり、一直線に寄ってきました。
そして、「ちょっとお尋ねしますが」と、永代供養のことについて話を聞かれました。
どうやら門を入ってきたものの、事務所がどこにあるかわからず、本堂の前でうろうろとしてしまったというのでありました。
私は、こういうことならもっと早くに声をかけてあげればよかったと後悔をしたのであります。
私たちは自分の行動について、これはいいのか悪いのか、悩みながら行動しています。
せっかくいいことをしても、相手の為にならなければ意味が無いと思ってしまうし、大切な人の為なら悪事を働かしてもかまわないとさえ考えてしまうこともあります。
仏教では何を善いこと、何を悪いことというのでしょうか。
ダンマパダではこのように説かれています。
もし或る行為をしたのちに、それを後悔して、顔に涙を流して泣きながら、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善くない。
もしも或る行為をしたのちに、それを後悔しないで、嬉しく喜んで、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善い。
仏教は自業自得の世界です。
後悔して自分を苦しみに追いやっているのは自分自身であります。
後悔しない様な行動をしていくことが、幸せに生きていくための行いであるということであります。
お釈迦様が在世の頃、スマナという華鬘という花でできた飾りを作る職人がいました。
かれは毎朝、マガダ国の頻婆娑羅王に8本のジャスミンの花束を届けて収入を得ていました。
ある日その花をもって都に入ったとき、多くの僧侶に囲まれて托鉢をしているお釈迦様のすばらしい姿を見ました。
そして「これらの花でお釈迦様を供養しよう」と考えました。
しかし、この花は王様に毎日お届けする花であります。
どうしようかと悩んだ末に、「王様に殺されてもいい。あるいは国から追放されてもいい。今ここでお釈迦様に供養することこそ、自分の最高の利益になり、安らぎの為になるのだ」と考えました。
そしてお釈迦様にすべてを捧げ、花を入れていた籠を空にして家に帰ったのです。
妻に「花はどうしたのですか?」と聞かれた彼は、「お釈迦様にすべて捧げました」と答えました。
彼の心の内を聞いた妻は、王宮に行ってこのことを話しました。
王様はもともとお釈迦様に深く帰依している仏教信者であります。
この事を聞いた王様は、スマナのことを「大いなる人である」と称讃し、多くの褒美を与えたというのであります。
このできごとを聞かれたお釈迦様は、「もしも或る行為をしたのちに、それを後悔しないで、嬉しく喜んで、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善い。」と言って言葉を残したというのでありました。
自分の財産のすべてをなげうってでも、この人のために尽したいと強く願うなら、後悔をする事もなく、そこにはきっと大きな喜びが生まれてくるのでありましょう。
善いことをすればその報いは自分に返ってきて幸せになります。
反対に悪いことをすれば、その報いが自分に返ってきて不幸になってしまします。
幸せになるか不幸になるか、それは後悔するか後悔しないかが、ひとつの目安となるのであります。