供養の方法を「涅槃経」から学ぶ

最上の供養の方法

ブッダの遺言が残された「涅槃経」。そこからどんな形の供養を知ることができるでしょうか。 写真:いらすとや

涅槃とは?

涅槃とはサンスクリット語で「ニルバーナ」(パーリ語では「ニッバーナ」)といい、それを音写したものを「涅槃」といいます。

これは、「ろうそくの火がふっと静かに消えて、二度と燃えることのない状態」を表す言葉です。

このように、煩悩の火が消されて真の安らぎの境地に至った精神状態を涅槃といいます。

仏教では、生まれては死に、死んでは次の世界に生まれるという、輪廻という苦しみの世界から抜け出して、涅槃に痛うことを目的としています。仏道修行者は、みんな涅槃に入るために、煩悩を消すという修行を行っているのです。

また、涅槃には二種類あります。

・悟りを開いて煩悩がすべて消えた時(有余涅槃
・寿命が尽きて肉体も完全に消滅したとき(無余涅槃

悟りを開くことができれば、生きている間にすべての煩悩を消し去り、涅槃の境地に至ることができます。しかし、精神が涅槃の境地に至ってもこの世に肉体が存在している限り、肉体に対する苦しみは亡くなりません。そして、寿命が尽きて肉体も完全に消滅したときに、真の涅槃に入るのです。

ブッダは29歳で出家して、修行の末に悟りを開きました。この時のブッダの精神状態は、煩悩がすべて消えたやすらぎの境地、「涅槃」に至りました。しかし、生きているうちは肉体への苦しみから離れられません。そして、80歳で命終わるとき、真の涅槃へと入ったのです。

一般的に「涅槃」というと、ブッダが寿命が尽きて亡くなることをいう場合が多いです。

ブッダの遺言

「涅槃経」には、ブッダがなくなるときの様子が書かれてあります。

ある時ブッダは、マガダ国の王舎城を出発して旅をしておられました。おそらく、生まれ故郷のカピラ城を目指していたと考えられています。

しかし、その目的もむなしく、病に倒れ、クシナガラの二本の沙羅の木の下で涅槃に入ることにしました。

ブッダが沙羅の木の下に横たわった時、不思議なことが起こります。沙羅の花が咲く季節でもないのに、白いきれいな花が満開に咲き、そしてブッダの体に降り注ぎました。また、曼陀羅華や栴檀の粉末が天から降ってきて、ブッダの体に降り注ぎました。また、天の楽器が虚空で奏でられました。

これらの出来事は、今涅槃に入ろうとしているブッダを供養するために起こった出来事です。しかしここで、ブッダはこのように言いました。

アーナンダよ。修行完成者は、このようなことで敬われ、重んぜられ、尊ばれ、供養され、尊敬されるのではない。アーナンダよ。いかなる修行僧、尼僧、在俗信者、在俗信女でも、理法にしたがって実践し、正しく実践して、法にしたがって行っている者こそ、修行完成者を敬い、重んじ、尊び、尊敬し、最上の供養によって供養しているのである。

ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経 (岩波文庫) [ 中村元(インド哲学) ]

「修行完成者」とは、ブッダのことです。

ブッダの尊い人に対して、花や音楽を捧げて供養したいと思うのは、とても当たり前の感情です。ところがブッダは、花や音楽を捧げることが本当の供養ではない、仏教の教えにしたがって正しく実践することこそが、最上の供養であるといったのです。

亡き人を供養するということ

私たちは、お葬式や法事などの時には、亡き人を偲び、供養します。しかし、何をすることが本当の供養になるのでしょうか?

お経を唱えること。お供えをすること。花を手向けること。手を合わせること。お念仏を称えること。お布施をすること。

これらのことはもちろん大事です。

しかし、本当に大事なことは、「今自分が幸せに生きること」なのではないでしょうか?

供養とは「供え養う」と書きます。お供えするのは、自分の気持ちをお供えするのです。養うのは、自分の心を養うのです。お葬式や法事をきっかけにして、故人に対する気持ちを花やお念仏などの形でお供えし、故人を偲ぶ気持ちを糧に自分の心を養って今を一生懸命に生きていくこと。これが本当の供養なのではないでしょうか。

ブッダが、仏教の教えにしたがって正しく実践していくことが最上の供養であるというように、残された今を生きる私たちがよりよい生活を送っていくことが最上の供養なのです。

今の自分を見つめなおすこと

「お葬式や法事は、長すぎてよくわからんしヒマや」といわれることがあります。

しかし、このヒマな時間がとても大事です。

現代の社会は時間の流れがあまりにも早すぎです。ものごとが目まぐるしく変わり、社会の変化について行くのに必死です。一分一秒たりとも気を許すことのできないような状態にあります。

そんな中で、数十分の、何もしない時間を作ることは、一日の中にどれほどあるでしょうか?スキマ時間を見つけてはスマホで検索し、情報をインプットし、24時間常に何か忙しく考えているのが、現代ではないでしょうか。

お葬式や法事をしている間は、マナーとしてスマホを見ることも許されず、むやみに席を移動することもはばかられます。(私はどちらも気にしませんが)

そうなると、この数十分がとても長くヒマな時間に思えるでしょう。しかし、このヒマな時間が大事なのです。社会の荒波にもまれて忙しく動き回っている日常から離れて、何もない時間を味わってみてください。このヒマな時間に、亡き人のことを考えてください。そして、静かな時間の中で自分の心を思い返してみてください。

自分の心を見つめなおし、そして生活を見つめなおすきっかけになるのが、法事やお葬式などの仏事です。そして、今を少しでもよりよい生活にしていくように努力することが、亡き人への大きな供養になるのです。

「供養」というものの形を、もう一度考えてみてはいかがでしょうか。