【渇愛】というお釈迦様が気づいた真理と「永遠の愛」 

総持寺の境内に咲く桔梗の花

愛する心

総持寺の境内にある大きな桜の裏側で、ひっそりと桔梗の花が咲いています。

表からは見えませんが、近くへ寄ってみるとたくさんの桔梗がひしめき合っています。

青くあざやかに、そして上品に咲いている桔梗が、心を和ませてくれます。

桔梗の花言葉は「永遠の愛」

その昔、桔梗という女性が、戦に行った恋人の帰りをいつまでも待っていたという出来事から、この花言葉がついたといわれています。

遠く離ればなれになってしまっても、いつまでもいつまでも思い続けることができるくらい、こころのそこから大切だと思える相手はいるでしょうか。

現代の私たちには、なかなか理解のできない気持ちかもしれません。

しかし、だからこそ「永遠の愛」に憧れを持ち、それを美しいと感じるのかもしれません。

人を愛することはとても大切なことです。

人を愛し、その人が大切な存在だと思うから、優しく接することができるのです。

ところが仏教では愛は愛でも「渇愛」という言葉があります。

喉が渇いて渇いて仕方がないように、愛に飢え、愛に執着している状態のことです。

お釈迦様は、愛は苦しみであると考えました。

人を愛することで、そこから執着心が生まれます。

誰かを愛すると「愛してほしい」という欲求が生まれ、愛してもらえないと怒りや悲しみなどの負の感情が生まれます。

また逆に、好きでもない人に愛されると迷惑極まりない場合もあります。

誰かを愛すると言う行為が、いい方に働けば喜びが生まれますが、必ずそううまくいくとは限りません。

むしろ、人を愛することを巡って争いが生まれることの方が多いのではないでしょうか。

ただ、愛することが悪いことだというわけではありません。

人を愛することや愛されることに執着することで、苦しみが生まれるということを理解しておかなければ、苦しい思いが生じることがあるということです。

「永遠」とは、いつまでも変わらないということ。

それは世の中には存在しないとされています。

目に見える物はすべていつか朽ち果てて言ってしまうし、人の心も瞬間瞬間に変化し続けています。

だからこそ、「永遠」というものに憧れをいだいているのです。

「永遠の愛」があれば、どれほど素晴らしいでしょうか。

愛する人を思う気持ちを、いつまでもいつまでも大切に、変わらずに持っていたいものですね。

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