心頭滅却すれば火おのずから
「心頭滅却すれば火おのずから涼し」という言葉があります。
これは中国の詩人である杜筍鶴(としゅんかく)の詩にに見られるものですが、日本では臨済宗の僧侶である快川紹喜(かいせんじょうき)という人によって広く知られるようになりました。
快川紹喜にこのような逸話があります。
快川紹喜は戦国時代の甲斐国、武田信玄に招かれて恵林寺に入りました。そして武田家の相談役喪を務めるなどし、名の知れた名僧でありました。
ところが、武田軍に攻め入った織田信長の軍勢によって恵林寺が焼き討ちにあいます。快川禅師とその弟子たちは山門へと逃げました。そして、
「この期に及んでどのように法輪を転ずるか、一句申してみよ」
と弟子たちに問いを投げかけました。弟子たちはそれぞれ答えます。
そして、いよいよ炎が間近に迫った中で、最後に快川禅師が言いました。
「安禅は必ずしも山水をもちいず。心頭滅却すれば、火自ずから涼し」
これを言い終わった後、燃えさかる炎の中へとその身が包まれていったといいます。
「心頭滅却すれば」とは、心をなくしてしまうのではなく、心の中にある煩悩を滅してしまうということです。すなわち、自分自身の心を整えていくということです。
ものごとのすべては、自分の心が作り出しています。
いいことも悪いことも、自分の都合で判断して自分のいいように解釈して、そして思い通りにならなかったときに腹を立てて怒り、苦しみ、自分で自分の身を滅ぼしているのです。
それもこれも、すべては自分の中にある煩悩のせいであり、思い通りにしたいという欲のせいなのです。
その煩悩を打ち消すことで、ものごとをありのままに正しく見ることができて、自身の苦しみから解放されることができるのです。
煩悩を打ち消すことができると、ものごとをありのままに見ることができます。「熱い」ものはそのまま「熱い」と知り、また「暑い」ものはそのまま「暑い」と知ることができます。
「暑い」ときに「涼しくあってほしい」という欲が出てくるのが人間です。そして、「涼しくあってほしい」と願っても涼しくならない、思い通りにならないので、「暑い暑い」と愚痴を言い、苦しんでいるのが私たちです。
「暑い」ものを「暑い」とありのまま受け入れることができる心の状態を、心頭滅却した状態というのです。
心頭滅却すれば、夏が涼しくなくなったり、火が冷たくなったりするわけではありません。夏は暑いし、火は熱いものです。
ものごとに対して、どのように向き合っていくかが問われているのです。偏った自分本位の目で見るのではなく、一歩引いて客観的にものごとを正しく捉えるように心がけましょう。
ちなみに、「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言うことがあります。
実はこの読み方は間違った読み方です。
心の持ち方次第で、どんな苦痛も感じることがない、というような意味で用いられることがあります。
しかし、先にも述べたように、あついものはあついのです。
火は熱いものであり、いくら心を滅したからといって火が涼しくなることはありません。夏は暑いもので、いくら心を整えていても夏は暑いのです。
「心頭滅却すれば火おのずから涼し」
火の熱さを受けて、心が自然とそれを受け入れていくのです。火が熱くて苦痛が起こったら、その苦痛もろとも受け入れていくのです。
火が涼しくなるのではなく、あついならあついままに受け入れていくことのできる精神を説いているのです。