味わうということ

味わうということ

ネットニュースで、映画やドラマを早送りで見ている人が増えてきているという記事を目にしました。

どういうことかといいますと、例えば上映時間が2時間ある映画を、そのまま2時間かけて見るのではなく、1.5倍の速度に早めたり、10秒飛ばしなどの機能を使ったりして物語をサクサク進めて見ていくということだそうです。

なかには2時間の映画を5分や10分で見てしまうという人もいるようです。

どうやら、会話がなかったり動きが少ないようなシーンを頻繁に飛ばし、クライマックスなどの盛り上がるシーンだけを見るというのです。

その背景には、作品が多すぎることがひとつの原因としてあげられるそうです。

また、それら多くの作品が、今やネットで簡単にいつでも見れるようになりました。

何百本とある映像作品をすべて見るには、現代の人にとってはあまりにも時間がたりません。

そんなにたくさん見る必要はないのではないかと思うところもありますが、周りの人たちと話を合わせるため、仕事につなげるため、という理由で見ておく必要があると考えているようです。

映像作品が、楽しむための娯楽から、ニュースなどと同じようなたくさんある情報のうちのひとつになってきているのであります。

映画やドラマなどを、どのように見るかは人それぞれですが、これでは少しさみしいような気もいたします。

私は学生時代、学校の先生から「お経はしっかりと味わって読んでください」と言われました。

卒業してからも、勉強会の講師先生のほとんどが「お経を味わってください」と話をされました。

諸先輩方からも「お経を味わう」ということを教わります。

お経とはお釈迦様の説かれた仏教の教えであり、お釈迦様のことばそのものであります。

そしてお釈迦様は、過不足なくその教えを説かれたといわれています。

つまり、お経の中には何ひとつ不要なことばはないということです。

だから、ひとつひとつ、一文字一文字、大切に味わって読みなさい、と教えられたのであります。

この「味わう」ということは、なかなか難しいのですが、私はこれを感動することだと思うのです。

感動を辞書でひもといてみますと「ある物事に深い感銘を受けて強く心を動かされること」とあります。

お釈迦様のことばの一つ一つに心を動かされ、そこから喜びを感じることが大切なのであります。

単なる知識としてお経の中身を知るだけではなく、その一つ一つを五臓六腑に染み渡らせることが大切なのであります。

また先生からは「学者は信心信仰がなくてもなれるが、僧侶は信心信仰がなければなれない」とも教わりました。

学者さんを揶揄して言うわけではなく、これはあくまでたとえであります。

学者は信心信仰がなくても、勉強して知識があれば論文をかくことができます。

しかし僧侶は、自分自身の信心信仰を伝えていくのが役目です。自分の知識を披露するのではなく、心にどのように感じたかを伝えることが大切だというのです。

お経を大切に読んでいれば、必ずそこに心が動かされる思いがいたします。

「うれしいなあ」「ありがたいなあ」

このように感じながらお経を読んでいくことを、「味わう」というのでありましょう。

京都にある、もみじで有名な永観堂禅林寺の第90世であります、中西玄禮上人は、よく「三感王」になりなさいと話をされました。

感恩

感謝

感動

この三つを大切にして、毎日を過ごしなさいと教えられたのであります。

感恩とは生かされていることの恩を感じることであり、「おかげさま」の心。

感謝は、おかげさまで生かされていることに対する感謝で「ありがとう」の心。

そして、生かされている命の不思議に感動すること。

中西上人が言われたこの「感動」も、「味わい」のことでありましょう。

日常生活の中で、いいこともわるいことも、うれしいこともかなしいことも、いろんな感情が次から次へと生まれています。

それらにのできごとに対して「ああ、またか」「こんなものか」と思うのではなく、うれしいときにはうれしいと知り、悲しいときには悲しいと知ることが大切です。

自分の感情、周りのできごと、それらをひとつひとつ大切にしていかなければいけません。

それを突き詰めたとき、生かされているこの命の不思議へとたどり着き、それに感動するのでありましょう。

映画やドラマを見るときも同じではないかと思うのであります。

その作品の1分1秒には、作者の思いが存分に込められ、何一つとしてムダなものはないはずです。

どんなときでも、ひとつひとつ大切に、味わっていきたいものであります。