わが身離れず

阿弥陀仏はわが身離れずいつもより添ってくれています。写真は総持寺本堂。

わが身離れず

阿弥陀仏こそ 尊とけれ

この世の常の 姿して

わが身離れず 添いたもう

松尾全弘上人

このことばは、総本山光明寺第83世である松尾全弘上人が、よく言っておられたことであります。

私も、修行時代の時からこの言葉をよく聞かせていただきました。

この言葉をもって、いつも身近に阿弥陀仏がおられることを考えさせられるのであります。

『観無量寿経』には「諸仏如来は是法界の身なり、一切衆生の心想の中に入りたもう」とあるように、この世界は仏の姿そのものです。

私たちを救おうと、さまざまな姿形に変わってこの世にあらわれているのであります。

先日、説教師であり、和歌山刑務所教誨師でもある高木歓恒先生の本を読んでいました。

高木先生は西山浄土宗を牽引する説教師であり、私も直接ご指導をいただいております。

大変ありがたく、心に染み入るお話をされるので、私の目標とする説教師であります。

著書に「阿弥陀寺発 お浄土行き」という本があります。

先生の自坊である阿弥陀寺では、毎月寺報を発行しているそうですが、そこに法話を掲載し、檀信徒の教化に勤められています。

その法話をまとめたものが、この本であります。

この中に、先の松尾全弘上人のお話がありました。

松尾全弘上人は、第二次世界大戦で出兵し、平壌にて終戦を迎えられました。

終戦の年、1945年の11月、「日本に返してやる」という言葉を信じてナホトカ港から帰国の船に乗せられましたが、連れて行かれたのはなんとシベリアの奥地でした。

旧ソ連の捕虜となり、抑留生活を送ることになったのであります。

松尾上人は、200人いる隊員の責任者であったそうです。

森林伐採などの強制労働にはノルマが課せられ、達成できなければ食料が制限され、責任者は夜半まで絞られました。

そんな生活を送り三年目のこと。絶望と向かい合わせの心の中に、光りがさしました。

松尾上人が本山での修行時代、当時の法主であった関本諦承上人から教えられた言葉を思い出したのです。

「阿弥陀仏は、この世に姿をあらわしているのだよ。それは太陽であり、月であり、山であり、川の水であり、青々と育った木々が皆、仏さまだよ」

このように教えられていたことに、はっと気がついたというのであります。

天地自然万物が阿弥陀仏として見えてきました。自然の姿がすべて阿弥陀さまでした。

天地自然万物は、私たちに無上の恵みを与えてくださっています。水も空気も光りも、吸う息、吐く息、みなすべて与えられている世界です。求めずとも、すでに与えられている世界です。お慈悲の中に居たのでした。

阿弥陀寺発 お浄土行き 高木 歓恒 著

松尾全弘上人は、当時のことをそのように語っていたというのでありました。

そして、そのような信仰が確立したとき、隊員みんなで誓ったことがありました。

これまでは帰る当てのない異国での生活で、祖国に残した親や妻、兄弟の身の上を心配するばかりでありました。

しかし、考えてみればそれ以上に私を心配し、帰りを待ってくれているのです。

思われている身であることを知って、元気が出てきました。

陰膳据えて待っている親や妻や兄弟のためにも「必ず、元気で生きて帰るぞ」と決意したというのでありました。

「阿弥陀仏こそ尊とけれ

この世の常の姿して

わが身離れず添いたもう」

これは、松尾全弘上人がこのようなシベリア抑留の生活の中で詠んだものだそうであります。

本当に苦しく、つらい生活の中に、仏の慈悲という希望の光を見たのでありましょう。

私はこれまで何度となく、この言葉を聞いてきました。

しかし、松尾上人のご苦労を思い、その背景を知ると、この言葉の重みが一段と増してくるように思うのであります。

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