お寺の掲示板『手を合わせると善意に受け取る心が生まれる』
「ありがた迷惑」という言葉があります。
よかれと思ってしたことが、受け取る人によってはかえって迷惑になることです。
本来はそれがありがたいことでも、その時の状況によってはありがたいどころか、迷惑なものになってしまいます。
聞いてもいないのにアドバイスをしてきたり、要求をしていないのにモノや食事を用意してくれたり。
ひとりにしておいてほしいときでも、ぐいぐいと近づいてきて、こちらの気持ちを無視するかのように干渉してくることもあります。
「ありがた迷惑」という言葉は、不思議なものです。
「ありがたい」と「迷惑」という、真逆の感情を表す言葉が一つになっているのであります。
単なる迷惑ならはっきりと断れるところが、ありがた迷惑になるとどこか断りづらいと感じることも多いように思います。
きっとそこには、自分を気遣っての行動であることがわかるので、その気持ちを無碍にしたくないという想いがあるように思います。
昔、「合掌することは自我をなくすことだ」と言われたことがあります。
私達はいつも自分中心にものごとを見て生活をしてしまっています。
そして、自分の思い通りにならなければ腹を立て、あるいは貪り、悩み苦しんでいるのです。
「自分が」という自我を捨てて、「おかげさま」という意識を持つことで、よりよい生活が開けてくるのであります。
「右ほとけ左われぞと合わす手の中ぞゆかしき南無の一声」
という歌があります。
合掌する右手は仏さまであり、左手は私であります。
これが合わさって合掌の姿になるのであります。
西山上人は
「南無とは我等が仏を頼む心なり、阿弥陀仏とは憑󠄀む心の、彼の仏の我を摂し給う他力不思議の行体なり。されば我が心を南無といい、彼の仏の我を摂し給うをば阿弥陀という。彼此一つになり合いたる姿が、即ち仏にておわすところを、南無阿弥陀仏と申すなり」
と残されています。
阿弥陀仏と私が一体となったところが南無阿弥陀仏であり、それこそ合掌する姿なのであります。
「自分が」という自分中心の考えを捨てることができれば、ものごとに対する見方も変わります。
迷惑になるということは、「自分が」してほしいこととは違うことをされるということです。
これではいつまでも、相手の行為は迷惑であり続けてしまうでしょう。
これを「おかげさま」の心で見ることができれば、ありがた迷惑も、「相手は自分のことを思ってしてくれてるのだ」として、その行為をそのまま善意としてうけとることができるのです。
対人関係は、日常生活の中で多くの悩みや苦しみを生み出します。
しかし、相手を変えることはできません。
変えることができるのは、自分の心であります。
「自分が」という我を捨てて、「おかげさま」で過ごす生活こそ、合掌する人の姿なのではないでしょうか。