「苦しいのは、生きている証拠」諸行無常の教えに触れて
ある雨の日のことでした。地面を打つ雨粒の音が、不思議と心地よく響きます。
お寺のそばを流れる川は、どこからともなく集まった水が、時に速く、時にゆっくりと、バシャバシャと音を立てて流れていきます。その絶え間なく姿を変え、波紋を広げながら流れる水の様子に、しばらく見入ってしまいました。
ゆく川の流れは絶えずして
しかももとの水にはあらず
(鴨長明『方丈記』)
この有名な一節にもあるように、水の流れには、ただ見ているだけで深い味わいを感じます。
仏教には、「諸行無常(しょぎょうむじょう)」という大切な教えがあります。
これは、「世の中のすべてのものは移ろい変わり、常に同じ状態にはとどまらない」という真理を説くものです。水が一瞬たりとも同じ形を保つことなく流れ続けるように、世の物事は刻一刻と変化し続けているのです。
お釈迦様は、「この世の一切は苦しみである」と教えられました。そして、私たちがこの「苦しみ」を感じる大きなきっかけの一つが、この「諸行無常」なのです。
病気になりたくないのに病気になり、年をとりたくないのに年をとり、死にたくないのに死を迎える。しかも、その悲しみは、いつ、どのようにやってくるかわかりません。
この苦しみをさらに深く探ると、その根本的な原因は「無明(むみょう)」にあるといわれます。これは、「世の道理、真理を知らない無智」のことです。
人は年を取り、いつか死を迎える身であることは、誰もが知っているはずです。「諸行無常」という言葉も、多くの人が知っています。それにもかかわらず、なぜ私たちは悲しみ、苦しむのでしょうか?
その原因が「無明」です。私たちは頭では理解したつもりになっていても、心は煩悩の渦に巻き込まれ、真理を「体得」できていないのです。
私が京都にある本山・光明寺で修行していた頃、毎日欠かさずお参りに来ていた一人の男性から聞いた言葉があります。
「苦しいのがわかるのは、生きている証拠だ」
その方は80歳を過ぎた方で、お寺のすぐ近くにお住まいでした。毎日、健康のためにと歩いてお参りし、近所の人たちと小一時間ほど話をしてから帰る、とても元気な方でした。朝の掃除の時間によくお会いし、色々な話を聞かせてもらいました。
あるとき、その男性がパタリとお参りに来なくなりました。どうしたのか尋ねると、体調を崩して入院しているとのことでした。
幸いにも数ヶ月後、男性は以前と変わらない笑顔で、再びお参りに来られました。少し痩せて見えましたが、元気そうな姿に私もホッとしました。
入院中の大変だった話を聞き、「大変でしたね」と私が声をかけると、男性はにっこり笑って、あの言葉を返してくれたのです。
「生きているからこそ、苦しいということもわかる。それはとてもありがたいことだ」
年を取って体がしんどいことも、死を迎えるのが怖いことも、そのすべては、「生きているからこそ感じられること」なのだと、その男性は教えてくれたのです。
お釈迦様は、「諸行無常」について、次のように説かれています。
「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と
明らかな知慧をもって観るときに、
ひとは苦しみから遠ざかり離れる。
これこそ人が清らかになる道である。
世の中には、永遠に変わらないものは何一つない。この真理を「頭で知る」だけでなく、「心で深く受け止め、智慧をもって観る」ことができれば、私たちは悲しみや苦しみをそのままにせず、うまく乗り越えることができるでしょう。
供養なら、和歌山かんどり本山総持寺へ
亡くなられた大切な人もまた、「諸行無常」の中にありました。生を受け、懸命に生き、そして移り変わりの法則に従って、この世を旅立っていかれました。私たちは、その方の存在が「無常」であったがゆえに、いつか来る別れに苦しみます。
だからこそ、仏教では「供養(くよう)」という行為を大切にしいるのです。
「供養」とは、このいただいた命への感謝であり、ご先祖様や故人様への報恩の心を形にする行いです。
和歌山市に位置するかんどり本山総持寺は、「いつでもお参りができるお寺」として、心の通う供養を大切にしています。仏さまやご先祖さま、故人を偲ぶ場所は、いつでも気軽に訪れられる場所であってほしい。そんな願いを形にしたのが当山です。
特に近年ニーズが高まるお納骨や永代供養についても、安心して任せていただけます。永代にわたる供養と管理を通じて、ご遺族様の負担を軽減し、「近いからいつでも会いに行ける」という安心感を提供します。
ご供養は、命をいただいて今を生きていることに感謝をし、自分自身の心も清める大切な行いです。しあわせな未来を生きていくために、ご供養は、歴史と安らぎに満ちたかんどり本山総持寺へ、ぜひご相談ください。