豆腐の境地

豆腐の境地

お鍋の季節となりました。

寒さで冷えた体も、お鍋を食べればほかほかと温まります。

白菜や大根がたくさんとれる季節でもあるので、檀家さんからたくさんいただきます。

いただいた野菜は、ありがたくよばれておりますが、季節的にもお鍋にするのが一番良く合うように思います。

あまり大きな声で言いたくないのですが、実はお鍋の豆腐が苦手であります。

食べないわけではありません。苦手なだけであります。

麻婆豆腐などのしっかり味の付いたものはなんとも思わないのですが、お鍋の豆腐だけは、味といい、食感といい、どこか口には合わないように思います。

さらに猫舌である私は、熱々の豆腐がなかなか食べられません。

手元の器にとった豆腐をポン酢につけて、そのまま冷めるまでしばらく置いてから食べるような始末。

どうもお鍋の豆腐は苦手なのであります。

と、愚痴をこぼしながらも、やっぱりお鍋には豆腐は欠かせないと思う、なんとも矛盾したことを思いながら、お鍋をつついております。

荻原井泉水という俳人の方がおられました。明治17年(1884)-昭和51年( 1976)の方でありますが、俳人でありながら評論や随筆など、多くの文章を残されております。

この方の随筆で、「豆腐」というものがあります。

およそ700文字の短い文章でありますが、とても興味深いものがあります。

豆腐ほど好く出来た漢(おとこ)はあるまい。彼は一見、仏頂面をしているけれども決してカンカン頭の木念人ではなく、軟らかさの点では申し分がない。しかも、身を崩さぬだけのしまりはもっている。煮ても焼いても食えぬ奴と云う言葉とは反対に、煮てもよろしく、焼いてもよろしく、汁にしても、あんをかけても、又は沸きたぎる油で揚げても、寒天の空に凍らしても、それぞれの味を出すのだから面白い。又、豆腐ほど相手を嫌わぬ者はない。チリの鍋に入っては鯛と同座して恥じない。スキの鍋に入っては鶏と相交わって相和する。ノッペイ汁としては大根や芋と好き友人であり、更におでんに於いては蒟蒻や竹輪と協調を保つ。されば正月の重箱の中にも顔を出すし、仏事のお皿にも一役を承らずには居ない。彼は実に融通がきく、自然にすべてに順応する。蓋し、彼が偏執的なる小我を持たずして、いわば無我の境地に到り得て居るからである。金剛経に「應無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)」とある。これが自分の境地だと腰を据えておさまる心がなくして、与えられたる所に従って生き、しかあるがままの時に即して振舞う。此の自然にして自由なるものの姿、これが豆腐なのである。

 豆腐には、悟りきった達人の面影がある。それは、厳しい環境の中で心身ともに鍛えられる禅の修行のように、重い石臼の下をくぐり、細かい袋の目を濾してさんざん苦労してきたからだ。私たちなど、その豆腐にくらべればまったくおよびもつかない。そんなことを、私は夕食の湯豆腐の鍋の前でしみじみと思い、また豆腐に教えられる。』

『豆腐』荻原井泉水

豆腐を「漢」にたとえた、面白い文章であります。

煮ても焼いても、汁にしても餡をかけても、油で揚げても凍らしても、それぞれの味を出す豆腐の柔軟さが語られています。

「應無所住而生其心」ということばが出てきましたが、これは金剛経というお経の中に出てくることばであります。

まさに住するところなくして、その心を生ず。

ひとつのところに執着をしないことが、その心を生むということであります。

豆腐は、そのときそのときの料理に合わせて変化して、自分自身の味や形を強調することがありません。

お鍋にあっては、自分が主役であることを主張することもなく、それでいてお鍋の具材としては欠かせないものとしてその存在を示しています。

もし豆腐が、その個性を強く出してしまうと、お鍋の具材のバランスが崩れてしまうでしょう。

自分自身に固執することなく、そのときの環境に従って柔軟に対応することのできる無我の境地を教えているのであります。

人間も同じであります。

家庭にあっては父親あるいは母親として振る舞い、職場では上司、部下として振る舞い、学校では先生、生徒として振る舞う。

他にも、友達、先輩、後輩、恋人、人付き合いの中でそれぞれの関係があり、私たちはその時々で自然と振る舞いを変えていく必要があります。

もし上司の立場という振る舞いを家庭の中に持ち込めば、おそらく家庭の中の調和が乱れてしまうでしょう。

自分勝手な振る舞いをやめて、そのときの状況、環境、縁に従って柔軟に対応していくことが、お鍋の中でも、人間の世界でも、同じように求められているのであります。

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