桔梗の花に学ぶ仏教の「愛」と「慈悲」の違い 

永遠の愛と慈悲の心

総持寺の境内で、大きな桜の木の影に、ひっそりと桔梗(ききょう)の花が咲いています。 表からは目立ちませんが、近づくと、たくさんの青い桔梗が鮮やかで上品な姿を見せ、見る人の心を和ませてくれます。

この桔梗の花言葉は「永遠の愛」。

それは昔、戦に行った恋人の帰りを、生涯待ち続けた桔梗という名前の女性の物語に由来すると言われています。

心の底から大切な人を、遠く離れていも想い続けるという気持は、現代を生きる私たちにはなかなか理解しがたいかもしれません。 しかし、だからこそ私たちは「永遠の愛」に憧れ、それを美しいと感じるのではないでしょうか。 人を愛し、その存在を大切に思う心は、優しさとなって現れる、とても大切な感情です。

ところで、仏教において「愛」という言葉は、多くの場合、「渇愛(かつあい)」という「苦しみ」を指します。 喉が渇いて仕方がないように、愛に飢え、愛に執着し、見返りを求める自己中心的な愛です。 お釈迦様は、この「渇愛」は苦しみの根源であり、ここから離れなさいと教えています。

しかし私は、お釈迦様が説いた「愛」と、現代を生きる私たちが考える「愛」には、異なる意味合いがあると感じています。

「愛」という言葉には、辞書を引くと様々な意味が出てきます。

  1. 親子・兄弟などがいつくしみ合う気持ち。また、生あるものをかわいがり大事にする気持ち。「愛を注ぐ」
  2. (性愛の対象として)特定の人をいとしいと思う心。互いに相手を慕う情。恋。「愛が芽生える」
  3. ある物事を好み、大切に思う気持ち。「芸術に対する愛」
  4. 個人的な感情を超越した、幸せを願う深く温かい心。「人類への愛」
  5. キリスト教で、神が人類をいつくしみ、幸福を与えること。また、他者を自分と同じようにいつくしむこと。
  6. 仏教で、主として貪愛のこと。自我の欲望に根ざし解脱を妨げるもの。

この中で、特に「親子・兄弟などがいつくしみ合う気持ち」や「生あるものをかわいがり大事にする気持ち」、「個人的な感情を超越した、幸せを願う深く温かい心」は、仏教でいう「慈悲」の心にとても近いものです。

現代の私たちにとっての「永遠の愛」とは何でしょうか。

それは、「仏さまの心」「仏さまの思い」であり、まさに「慈悲」の心ではないかと思うのです。

仏さまは、過去も、現在も、そして未来までも、常に私たちを愛し、しあわせであるようにと願い続けてくださっています。

たとえ、どれだけ離れていたとしても、「私のしあわせを願ってくれている人がいる」と思えるだけで、人は元気が出てきて、生きる力が湧いてくるものです。 それが、真の「永遠の愛」の力ではないでしょうか。