亡くしてから気づいたもの
叔父が亡くなって、もうすぐ一年を迎えようとしています。
叔父は福岡県で90歳の母親(私の祖母にあたります)と住んでいました。和歌山と福岡では距離も遠く、なかなか会うことができません。子どもの頃は、お正月に父の帰省について旅行がてら一緒に行くのが毎年恒例の家族イベントとなっていました。
叔父は子どもに対してとても面倒見がよく、遊びに行くといつもどこかに連れて行ってくれました。テニスが上手で、一緒にやったことは今でもよく覚えています。
私が結婚して子どもを連れて遊びにいっても、子どもをすごくかわいがってくれて、子どものよろこびそうなところへ食事に連れて行ってくれました。
そんな叔父は、数年前からガンを患っていました。入退院を繰り返し、救急車で運ばれたこともありました。
しかし、周りに心配をかけまいと必死にそのことを隠していました。
祖母も、叔父の身体があまりよくないことはわかっていましたが、それがどれほど悪いのかというところまでは教えてくれなかったようです。
家族にくわしい状況が知らされたときには、もう命は永くはないだろうとのこと。
そうこうしているうちに、叔父は63歳であの世へと旅立ちました。
この世は諸行無常であるとわかってはいるつもりでも、どこかで「まだまだ長生きできる」と考えてしまっている愚かな私であるので、とてもさみしい気持ちでいっぱいです。
実は、子どもに対する叔父の面倒見のよさには最近になって気づかされました。
子どもの頃は叔父の世話焼きが嫌いで、うっとうしくも感じていました。冗談を言い出せば止まらず、子どもの嫌がるような事をあえてして泣かしてしまうような、そんな悪い人のように見えることもありました。
叔父の本心を知ることのできない子どもにとっては、叔父のしつこい言動が理解できなかったのです。
しかし、それは子どもをかわいがる気持ちから表れていたことなんだということを、あとになってから知ることになりました。周りの人を大切に思い気遣いが上手な人だったということが、お葬式や満中陰のあとのみんなの話の中から、よく伝わってくるのです。
亡くなった人は二度と帰ってきません。しかし、その人の想いや、その人との思い出は一生私の心の中に残り続けます。
亡くしてから気づいた気持ちこそ、ずっと大切にしていきたいものです。