仏様はいつも見ている
新しい年を迎えるために、年末のうちにあれやこれやと準備をしますが、ぬかりなく進めたつもりでも何か忘れているということがよくあります。
そのなかでもよくあるのが、境内のあちこちに張っているカレンダーやポスターの、交換のし忘れです。
年が明けてもしばらくそのままで、いつまでたっても旧年中のカレンダーや、掲載期間が終わったポスターを張ったままにしているということがよくあります。
今年も年が明けてから、それらを張り替えていないことに気がつき、あわてて境内を確認しているような始末です。
境内を隅から隅へと見回って、カレンダーやポスターを探し、確認して、古いものは交換します。
令和3年から令和4年に変わったカレンダーを見ると、改めて新年を迎えたという実感がわき、心新たにこの一年頑張らなければと、やる気がわいてきます。
このようにして境内を回っていた時、ふと何やら視線を感じました。
おかしいな、だれかそこにいたのかなと思い、そちらのほうに目をやると、仏様の写真が使われたカレンダーが貼ってありました。
いつもなら何も思わないのですが、その時ばかりはカレンダーの仏様にじっと見られているように感じるのです。
仏様から見られているので、こちらも負けじっと見つめ返します。
不思議なことに、どの角度から見ても、仏様と目が合います。
私が、右へ左へ、上へ下へと、体を動かし目線を変えて見てみても、必ずこちらを見ているのです。
するとそこから「ああ、私はいつも仏様に見られているのだ」という気持ちが湧き起こり、自然とそのカレンダーに手を合わせたのでした。
中国の善導大師というお方が書かれた「観経疏」という書物があります。
この中に、このような言葉があります。
衆生、行を起こして、口常に仏を称すれば、仏すなわち、これを聞きたまう。
身常に仏を礼敬すれば、仏すなわち、これを見たまう。
心常に仏を念ずれば、仏すなわち、これを知りたまう。
衆生、仏を憶念すれば、仏また、衆生を憶念したまう。
彼此の三業相い捨離せず
善導大師「観経疏」
三業とは、「身」「口」「意」で行う私たちの行為のことをいいます。
体を使って仏様を礼拝し、あるいは手を合わせれば、仏様はこれを見てくださっています。
口で仏様の名前を呼ぶ、つまり南無阿弥陀仏とお念仏を称えれば、仏様はこれを聞いてくださっています。
心で仏様のことを思えば、仏様も私たちのことを思ってくださっています。
私たちと仏様とは、決して離れることはなく、いつも仏様に見られ、守られ、そしていつも心で一緒にいるのです。
カレンダーの写真から、そのような仏様の思いが、ひしひしと感じられたのであります。
「誰かに見られる」ということを意識することは、とても大切なことです。
イギリスでは、街のいたるところに「目のポスター」を貼ったところ、盗みによる犯罪行為が全体的に少なくなったといわれています。
またアメリカでも、地下鉄に目のアート作品を壁に施すことで、防犯の役割を担っているといわれています。
さらに、自分の部屋や職場に目のポスターを貼ることで、仕事の効率があがったり、集中力が長く続くということもわかっています。
このような事例を見てみると、「誰かに見られている」と意識することが、自然と人間の行動を変えるということがよくわかります。
思えば子どもの頃、部活の試合で他校に行ったとき、監督によく言われた言葉がありました。
「お前たちはみんなに見られている。だから恥ずかしくないように礼儀をわきまえて行動しなさい」
試合の勝ち負けよりも、礼儀を重んじる監督でありました。
試合の会場に行けば、自分たちだけではなく、相手チームや関係者、観客など、たくさんの人がそこに集まっています。
いつどこで、誰に見られているかわかりません。
挨拶のひとことが無いだけで「あのチームは礼儀ができていない」と、チーム全体にまでその影響が及ぼされてしまうのです。
スポーツを通して、将来にわたって恥ずかしくない人間になることを教えられたのであります。
みんなが私を見ているんだと意識していると、自然と悪いことはできなくなります。
仏様がいつも見ている。
ご先祖様がいつも見ている。
みんながいつも見ている。
そのことを忘れず、日々精進していくようにしましょう。