禁欲は心を浄める
寒い日が続きますと、外に出るのもおっくうで、ついつい引きこもりがちになってしまいます。
和歌山はほとんど雪は積もりませんが、北国になりますと、雪が降り積もってそれこそ外へ出るのも一苦労になるでしょう。
冬の季語として「冬ごもり」ということばがあります。
松尾芭蕉の歌に
冬ごもり
また寄り添わん
この柱
松尾芭蕉
というものがあります。
辺り一面が雪で覆われて、どこにも行くことができず、ただ静かに家の中で冬の寒さをやり過ごす、そのような雪国の情景が思い浮かびます。
平安時代の歌人である、紀貫之は
ふゆごもり
思ひかけぬを
このまより
花と見るまで
雪ぞふりける
紀貫之
と詠んでいます。
寒い冬をみんな家の中で籠もっている。そんな中、ふと木々の間から外を見てみると、まるで雪が花に見えるように降っていた。
動物も植物も、人間でさえも活動を止めてしまっている季節の中に、移ろいゆく自然の美しさを感じさせる歌であります。
冬ごもりひとつとってみても、なにをどのように感じるのか、それは人それぞれ受け取り方が違うのでありましょう。
1月8日の日経新聞のコラム「春秋」に、冬ごもりについてこのような記事がありました。
冬ごもりには「静的な物忌の禁欲生活」との信仰的な意味合いがあったと山本健吉著「ことばの歳時記」は記す。ある種の日常の行いを控えてけがれを落とす。ほとんど仮死状態に近い生活を送ることで体に神聖な霊力が宿り、発育が促される。生き物はそうやって冬を耐えしのぶので春を喜ばしく感じると日本人は考えた。
1月8日日経新聞春秋
冬ごもりという禁欲生活によって、けがれが落とされ、神聖な霊力が宿るというのです。
今でこそ交通の便が発達し、冬でも出かけられるようになりました。
冬の間でも仕事ができるようになり、夏も冬も変わらない生活ができるようになっています。
昔は、雪が降れば仕事ができませんでした。
交通手段も限られ、雪の降る中、簡単に出歩くことができませんでした。
きっと、食べるものも限られていたことでしょう。
まさに、禁欲生活そのものだったに違いありません。
しかしそのような生活が、人の心を整える大きな役目を果たしていたのでありましょう。
お釈迦様やその弟子たち、出家修行者は、戒を守って禁欲生活を送っていました。
賢者は欲楽をすてて、無一物となり、心の汚れを去って、おのれを浄めよ。
法句88
欲望を捨てて生活をすることは、心のけがれを拭い去って、自らの心を浄めることになるのであります。
出家修行者たちは、戒を守って禁欲生活を送ることによって、心を浄め、真の安楽である涅槃を目指したのであります。
また、出家をしていない、在家の信者たちも、戒を守って生活をしました。
特に布薩と呼ばれる日には、出家修行者とほとんど同じ戒を守って、禁欲生活を過ごしたのであります。
この戒をたもつことによって、その功徳によって心が浄められて、善い果報が得られることを信じたのであります。
その戒とは、
生き物を殺さない
物を盗まない
男女の交わりをしない
噓をつかない
酒を飲まない
香水やアクセサリーをつけない
歌や踊りなどを楽しまない
高く心地よいところでは寝ない
正午を過ぎてから物を食べない
という、八つの戒と一つの食事に関する戒で、これを八斎戒といいます。
在家である人々も、布薩の日になれば、日常を離れて、非日常生活を送ることで、みずからの心を整えていたのであります。
現代のわれわれには難しいようにも感じますが、自分の生活を見直してみれば、できることがあります。
例えば、毎日お酒を飲んでいる人は、今日はやめてみる。
テレビやスマホなどで映画や音楽などをよく見る人は、今日は控えてみる。
香水やアクセサリーをつけない。
そのようにして、習慣になってしまっていることを、今日だけはやめてみる。
そして、そのときの自分の心をよく観察してみます。
一日たって解禁したとき、今度はそのときの自分の気持ちをよく観察してみます。
たった一日の禁欲であっても、きっとなにか感じることがあるはずです。
そのようにして、ちょっとずつ、ちょっとずつ、自分の心を整えて、よりよい人間として成長していくのであります。
最近はこのコロナ禍で「巣ごもり」ということばをよく耳にするようになりましたが、ここにも同じような効果が期待できるのではないのかと思うのです。
行きたいところにも行けず、やりたいことも思うようにできず、家の中に閉じこもっているような日が続いています。
そんなときだからこそ、自分自身の心を見つめ直し、けがれを落とすように心がけていかなければいけません。
「冬ごもり」をして厳しい寒さを耐えしのぎ、春が訪れたときには心も体も軽やかに、喜ばしく感じます。
そのように、戒を守って正しい生活を送り、心を浄めることができれば、コロナ禍が終わったときにはきっと、すばらしい人間として成長していることでありましょう。