稲盛和夫さんの体験から「利他」を学ぶ
京セラの創業者である、稲盛和夫さんのエピソードを紹介します。
稲森さんは1997年9月、65歳の時に京都にある臨済宗妙心寺派の円福寺で得度を受けられました。
そしてその2ヶ月後の11月、お寺に入って短期間の修行生活を行いました。
それはかなり厳しいものだったそうです。
初冬の肌寒い時期。
丸めた頭に網代笠をかぶって、紺木綿の衣を身にまとい、素足にわらじという姿で家々の戸口に立って施しを請う、托鉢行を行っていたときのことです。
わらじからはみ出した足の指がアスファルトですり切れて血がにじみ、その痛みをこらえて半日も歩けば、体はボロぞうきんのようにくたびれてしまいます。
それでも先輩の修行僧と一緒に、何時間も托鉢を続けました。
夕暮れ時になり、疲れ切った体を引きずりながらお寺へ戻る途中、とある公園にさしかかったときのことです。
公園を掃除していた作業服姿の年配の女性が、稲森さんらに気がつくと、片手に箒をもったまま小走りに走ってきました。
そして、いかにも当然の行為であるかのように、そっと500円玉を頭陀袋に入れてくださったのです。
その女性がけっして豊かな生活をしているようには見えないにもかかわらず、一介の修行僧に500円の喜捨をすることに、何のためらいも見せず、またいっぺんの驕りも感じさせなかった。
その美しい心は、それまで生きてきて感じたことがないくらい、新鮮で純粋なものでした。
稲森さんは、その女性の自然な慈悲の行を通じて、たしかに神仏の愛にふれえたと実感できたのだといいます。
まず他人を思いやる、あたたかな心、「利他」の真髄を教えてくれたのだというのでした。
利他というと、大げさな響きはありますが、そうではありません。
子どもにおいしいものを食べさせたい、女房の喜ぶ顔が見たい、苦労をかけた親に楽をさせてあげたい。
そのように周囲の人たちを思いやる小さな心がけが、すでに利他行なのです。
そうしたつつましく、ささやかな利他行が、やがて社会のため、国のため、世界のためといった大きな規模の利他へと地続きになっていくのだというのでした。
このエピソードを聞いて私は、すっと心に染み入るものがありました。
ついつい自分の利益を考え、損得勘定で動いてしまうのが人間です。
そんな自分の都合を捨てて、ただ相手のためにと行動することができる心こそ、まさに仏の心だと思うのです。
そんな仏の心で行うならば、金額の多少も行動の大小も、何一つ差はなく平等なものなのです。
500円を施した女性とマザー・テレサの間に、本質的に差はないということです。
人間の心がより深い、清らかな至福感にみたされるのは、自分のエゴを満たしたときではなく、利他を満たしたときであります。
自分の行動が誰かの役にたっているのか、本当に他人のためを思ってやっているのか、つねに自問自答しながら行動していきたいものです。