「人」にはなるな「人間」になれ
「人」にはなるな「人間」になれ
人は、生まれてくるときは「人」として生まれてきます。
そして、人と人との「間」に挟まれて、いいことも悪いことも経験しながら「人間」に成長していくのです。
いろいろな人との関係の中で、自分自身を育んでいくのです。
そして、自分の力だけでやっているんだと勘違いし、「人間」になりきれなかった人のことを「間抜け」というのです。
人はひとりで生きていくことはできません。
それなのに、ひとりで生きているつもりになっていたり、自分の都合で他人と関わっているのが私たちです。
そもそも、人には「いい人」も「悪い人」もいません。
いいとか悪いとかいう考えは、自分勝手に都合よく見ているのであります。
天気に関して、こんな興味深いお話があります。
私たちが毎日気にする天気予報ですが、テレビなどで天気予報士さんが解説をするときは、言ってはいけないことがあるそうです。
それは
「いい天気」
「わるい天気」
確かに、晴れたときには旅行にも行けるし、運動会やイベントなどの行事も何の心配をすることもなく行うことができます。
これは、その人たちにとって「いい天気」ということです。
しかし、農業をやっている人にとっては、一概に雨が降らないということがいいこととはいえません。
反対に雨が降るとなると、野外イベントが中止になる場合もあり、「悪い天気」といえるかもしれません。
しかし、それが恵の雨となり、畑の野菜の成長を促すことを考えるならば、「いい天気」といえるでしょう。
同じ天気でも見る人によって「いい天気」と「悪い天気」がわかれるのです。
つまり、「いい」「わるい」は、モノそのものやできごとにあるのではなく、受取る側の人間が勝手に判断しているのであります。
『華厳経』には善財童子の求道の旅が説かれています。
善財童子は、文殊菩薩に勧められて悟りの道を求める旅にでます。
そこで一人と出会い、教えを受けると、次の人を紹介してもらいって会いに行く。
そして教えを受けると、また次の人に会いに行く。
そのようにして53人の人に出会い、教えを受けるのです。
この53人の中には、仏教の修行者だけでなく、仏教以外の修行者や仙人、王様、遊女、さらには少年や少女まで、幅広くいろいろな人が登場します。
そしてこれらのすべての人を、自分を悟りに導いてくれる人という意味の「善知識」と呼んでいるのです。
私たちが出会う人は、私に何かを教えてくれようとしている人なのです。
それなのに、自分の都合にあわせて見ているのです。
いい人とは「自分にとって都合がいい人」
悪い人とは「自分にとって都合が悪い人」
というふうに見て、自分で苦しんでいるのです。
どんな人と出会っても、その人は私を「人間」に育ててくれる人です。
「間抜け」にならないように、気をつけていきたいものであります。